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  朝陽 



 何度も、何度も、

 柔らかい手がイルカの髪を梳き、頭を撫でる。

 頬に添えられた優しい手は、

 体中に染み込む温もりを与えてくれる。



   イルカ……



 久しぶりに

 母親が夢に出てきた。



「ん・・・…母さ…」

 柔らかい。

 顔を、柔らかく暖かい何かが包み込んでいる。

 甘い匂い

 つい心地良くて、そこに顔を埋めたまま、朝陽の中でまどろむ。

 薄桃色が射した白。

 寝具の清潔な白とは違う、

 優しい色が目に入った。

「・・・・・・・・・…?」

 視界を妨げるその色に、イルカは焦点の定まらない目を見開いた。

 暖かな寝具に包まれ、心地良い朝陽を浴びて目覚めた朝。

「…何だ・・・…」

 左手をそこに、伸ばしてみる。

 触れたそこは、柔らかく、暖かく、そして触れたと同時に

「ぁん・・・…」

 微かな声がした。

「!!!!???」

 非日常的な音にイルカの意識は急激に覚醒へと向かう。

 柔らかな寝具から身を起こし、何が起こったのか確認すべくそこに目をやると、





 見覚えのある女が、ほぼ全裸でそこにいた。

 心地良さそうに寝具に包まれて眠っていた。

 つまり、



 イルカの隣で。



 そしてそれはつまり、

 先ほど触れたのは



「・・・・・・…」

 自分の掌を見つめて、イルカは寸詰まりを起こした思考回路をようやく動かして計算する。



 そう、先ほど自分がふれたのは、

 女の白く、豊かな ‐‐‐‐





「*+&%$#!@!!!!???」



 

 その朝、

 意味不明な叫びが、朝を告げる鳥の声に混じって里中に響いた。







     朝陽





「何よ朝から騒々しいわね…」

 その叫びにようやく目を覚ました女は、長い黒髪をおざなりに手で梳きながら体を起こした。

 寝具がずれ、白い裸の上半身が露となる。

「ちょっ!く、そん…あーもうっ!」

 またもや意味不明な言葉を羅列させながらイルカは枕を女に押し付けてそれを隠すと、

 それからようやく、自分も裸に近い姿である事に再び顔を青くした。

「・…・・…」

 黒髪の女は、陳腐な人形劇でも観劇するようにすました面持ちで枕を抱いたまま、イルカが自己完結するのを待つ。

 やがて、幾分冷静さを取り戻したのか、イルカは肩で大きく深呼吸すると背中を向けたまま女に言葉を向けた。

「あの、紅先生・・・……一体何が起こったのでしょうか……」

 後姿だけでも、かなりイルカが赤面している事が分かる。

 背中に残っている大きな傷跡が、赤みを帯びているのだ。

「上忍と話をするのに背中を向けたままでいいのかしら?」

 苦笑したいのを抑え、わざと平坦な口調で黒髪の女、夕日紅は短く言い放った。

「え、あ、はい、申し訳無…」

 悲しいかな中忍のさが。

 生真面目なイルカは寝台の上に正座する形で勢いよく紅を振り向く。

 そこには、枕をどかしてわざと胸元を露にした紅が…。

「ぎゃーーっ!!」

 壊れた人形のように、イルカは叫びながらまた勢いよく背中を向ける。

「女の胸を見て『ぎゃー』は無いんじゃない?傷つくわね…」

「す、スミマセン…」

 さすがに今度は振り向かないが、イルカはよりいっそうに顔を紅潮させて肩を窄めた。

「あ、あの…何か着て下さいませんか……」

 消え入りそうな声でそう懇願する中忍に、紅は気の毒とさえ思ってしまう。

「仕方無いわね」と苦笑して、壁に掛かっていた浴衣を羽織った。

「ほら、説明してあげるからこっち向きなさいよ」

 それでも半信半疑なのか、イルカは恐る恐る紅を振り向く。

 薄青の浴衣を纏った紅に、固まった表情に安堵を浮かべてイルカは振り返った。だが、その表情はすぐに緊張を帯びる。

「ん~…」

 まるでカカシがよくそうするように、紅は手を顎の下に添えて天井を見上げた。

 説明するための言葉を選んでいるのか、

 それとも悪巧みを計算しているのか、イルカには判りかねた。



「ま、後々問題になるような事はしてないし、されてないから、いいんじゃないかしら?」



「は?」



 『説明』はそれで終わりだった。



「それ、はどういう……?」

 整理がつかない面持ちでイルカは両目を細める。

「言葉の通りよ」

 よっこいしょ、と億劫そうな声と共に紅は寝台から腰を上げた。

「洗面所借りるわね」

「はぁ、どうぞ……」

 寝台から降りる際、紅の白い両足が浴衣からさらけ出る。一向に気にする様子もなく彼女は大股で洗面所の方へと消えていった。

「何で洗面所の場所を知っているんだろうか…」

 というイルカの疑問を置き去りにしたまま。

 そのうち、水が流れる音が山彦のように聞こえ始めた。我に帰ったイルカは慌てて自分も寝台から降りて、身に付ける物を探した。

 見れば、昨日着ていた黒の上着が、寝台近くの椅子に掛けられていた。無造作というよりは、形を整えて。

 触れてみると、それはわずかに湿り気を帯びていた。

「……………?」

 よく部屋を見渡してみれば、ところどころ床に濡れ跡が残っていた。

 窓から外をのぞけば、木々の葉に滴る露が、朝日を浴びて輝いている。

「雨が降ったのか…?」

 

 昨日。

 昨晩。

 学校で残業をして、家に帰る途中。

 人通りが少なくなった道に入って…

 

 そう、

 それから、記憶が無い。

 雨が降ったことさえ。

 学校を出る時点までは、紅がいなかった事だけは確かなのだ。



「っつ………」

 眩しい朝日に両目端を細めたとき、頬に僅かな痛みを感じてイルカは奥歯を噛んだ。

 手を頬に当てれば、先ほどまで気づかなかったが、ばんそうこうが張られていた。

 ちくりと、痛む。その手の甲にも、同じく白い包帯が。

「あれ~……?」

 まったく覚えの無い、傷の手当てがされているのである。

 それに気づくと、とたんに体中に痛みを感じ始めた。

 足、腹、胸、腕。

 心なしか、息苦しい。

「……」

「あまり思いつめない方が良いわよ?」

 顔をあげれば、洗面所から出てきた紅がそこにいた。

 よく見慣れた装束に着替えたいでたち。

「あ、いや、でも……」

 今浮かんでいた疑問符を隅においやって、イルカは慌てて上着を掴んで首と腕を通す。少し、冷たい。

乱れた寝具はそのままに、イルカは帰り支度をする紅の背中に言葉をかける。

「でも、何?」

「……俺、何も覚えていなくて……何か失礼な事をしてしまったのではないかと…」

「私が大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫なのよ」

 教師が生徒に怒るように、紅は伏せがちのイルカの顔に向き直った。

「それとも、もし何かあったとしたら、カカシに顔向け出来ないとか?操立ててるんでしょ?アイツに」



「はい?」



 素っ頓狂な声と共に、イルカの思考が再び止まったようだ。

「冗談よ、馬鹿ね。仲が良いのは知ってるけどさ」

 紅は、鈴が転がるような笑いを口端に乗せる。

 頭上に疑問符を幾つも浮かばせながら、苦笑と共に首をかしげるイルカの様子を眺めながら、

(あ~ら可哀相に。こりゃ、あいつの一方的な片思いね…)

 と紅は、今は長期任務で里を離れている銀髪の同僚に、少しだけ同情するのだった。

 冗談も通じないとは、これは完全なる天然的鈍感である。

 上忍であるはたけカカシと中忍であるうみのイルカが、互いの玄関を跨ぎあう仲であるのは、里内で有名な話だった。

 絶対的な身分を越えた、友人同士。

 男の友情。

 忍び社会では少ない、「良い話」の一つである。



 ただ、そう思っているのは中忍うみのだけで。



 銀髪の上忍に別の心情がある事は、彼を知る近しい者の間では明らかなことだった。

 たとえばこのくの一、夕日紅や猿飛アスマなどは。



「ま、とにかく気にする事は無いって事。忘れたければ、忘れていいのよ」

 場と状況に先ほどから混乱しっぱなしのイルカを少し哀れに思いつつ、早めに話を切り上げてやろうと紅は再びイルカに背を向けた。

「じゃあね」

「あ、あの…っ」

 再び、その背にかかる声。

 紅は振り返らず、「何?」と一言だけ答えた。

「御飯…」

「?」

 今度は紅が、頭上に疑問符を浮かべてイルカを振り返った。

 そこには、無理に落ち着きを取り戻した面持ちではにかむイルカの微笑があった。

 寝室の隣、台所の方を指差している。

「朝御飯……、召し上がっていきませんか?」

「……」

「これから、ご出勤でしょう?お互い」

 イルカの提案にしばし、不意を突かれたように大きな両目を数度瞬きさせると、

 紅も軽い笑い声を漏らしてうなずいた。

「じゃあ、お言葉に甘えようかしら」

 まだわずかに湿っている忍装束。

 雨独特の青臭い香りが染みている。



 服の代えをとりに行くのは、朝食を馳走になってからでも遅くはないなと、

 紅は促される方へと歩を進めた。











 香ばしい味噌汁に、素朴な味付けの煮物、丁寧に焼かれた魚に、うまい具合に炊かれた白米。

 誠実さが伝わってくるような、質素で、だが美味い朝食に空腹を満たした紅は、

 何度も頭を下げるイルカに見送られてうみの家を後にした。

「今日は、有給でもとって休みなさい」と忠告して。

 

「カカシが足繁く通いたくなる筈よねぇ…」

 うみの家から真っ直ぐに伸びた、両側を田畑に挟まれた道を、朝日に向かって歩く。

 まだ口の中に残る煮物の味に、時折唇をなめながら。

 繁華街から離れた閑静な場所。

 涼しい朝の風の中で紅は一人ごちていた。

「あんな美味しい『家庭料理』が食べられるんだから…」

 私も通っちゃおうかな。

 銀髪の同僚に対する意地悪を一つ思いつき、肩で小さく笑う。

「それにしても……」

 また、口の中で煮物の香りがした。

 整った、落ち着いた味だった。



-風邪ひくわよ



「…………」

 首筋を通る風に、身震いする。

 そういえば昨晩は、雨と一緒に風も冷たかった。

 

昨晩、

 下忍達の、遅くなった任務報告を終えて、家に向かう途中で雨に降られた。

 繁華街から外れた、人気の無い道端に、座り込む人影を見つけて足を止める。

 全身を濡らして、黒い髪からは水が滴り、

 でも動かない人影。

 風邪ひくわよ

 と声をかけても、返事をしない人影。



 しゃがみこんで顔を覗き込む。

 雨に混ざって、赤い水筋…。

「ちょっと…ねぇ!」

 肩を揺すってみると、力の抜けた首ががくんと垂れた。

 崩れ落ちる体を支えると、重さに耐え切れず思わず尻餅をついた。

 懸命にその体を抱き起こすと、雨と泥と血で濡れる男の顔があらわに見えた。

 見覚えのある顔に、驚く。

「イルカ…先生…?」

 語尾に疑問符が伴ったのは、そこで紅が目にした面持ちが、あまりにも日常的に学校で見かけるイルカのものと異なっていたから。

 雨に冷えて青ざめた顔。

 頬や額には、未だ出血する傷が見受けられ、

 意識が朦朧としているその面持ちは、苦痛というより悲痛を浮かべている。

「私刑…………」

 殺さない程度に体中に付けられた傷や痣に、眉根をひそめる。

 

 どうしてなのか…

 この誠実を絵に描いた人間が、里内でこのような傷を負う事になるのか。

 とにかく、

「しっかり…っ!」

 この男を救わねばならない。

 わだかまる疑問を脱ぎ捨て、紅は男の腕と肩を担いで立たせた。

 チャクラを練り、細い両腕に力を送り込む。

 女の腕で支えるには重い男の体が、軽くなる。

 傘もなく、雨と泥で濡れながら、紅はイルカを連れて長い家路を辿った。

 以前、一度だけ事務的な用件で立ち寄った事のあるイルカの家へ。





 それから……















「あら。生きてたの」

 イルカ宅から一度家に戻り、それから事務的な用事を持って火影邸に行くと、

そこには先客として銀髪の同僚がいた。

 実務室前の廊下には、順番待ちをしているその他の上忍らの姿や中忍の姿も見受けられた。

 人の気配で雑然とした空気と厳格な空気が混在する場。

「ずいぶんな挨拶だな」

 眠たそうな半開きの目で、銀髪の同僚、はたけカカシは拗ねる振りをした。

「あんたなんか、いつどこで野垂れ死んでも驚かないわよ。いつ帰ってきたの?今朝?」

 同じ調子で紅も、ふふんと笑って言い返す。

「うわ、酷い。ま、別に俺はお前に労って貰おうとは思ってないしね~」

「そうでしょうとも。煮物が上手に作れる『オトモダチ』の方が良いのよね」

「その通り…」

 児戯より低質な会話を数度交わす上忍二人。

 紅の言葉にカカシはふと、言葉を止めた。覆面の下で、確認するように「ん?」と呟く。

「って何でお前がイルカ先生が料理が得意な事を知ってるんだ?」

 結局、出た言葉も児戯を出ず。

 やれやれと肩をすくめて紅は大御なため息を吐き出した。

「朝食、ご馳走になっちゃった☆」

「朝食!?」

 紅の言葉に驚いたのは、何もカカシだけでは無かったようだ。

 その場にいた、両者の会話をふと小耳に挟んだ面々がいずれも、声に出さねど吃驚を浮かべた面持ちで一斉に振り向いたのだ。

「まさかお前…」

 急に変わった空気が、紅の悪戯心に火をつけた。

 人差し指を赤い唇に当てて、悪魔の笑みをたたえる。

「あ、さ、が、え、り。しちゃった」



 空気にヒビが入る音が、

 聞こえた。







「ああうざってぇ」

 はたけカカシと共に長期任務に出ていた猿飛アスマは、帰省したその日に早々、飲みにつき合わされていた。

 上等な酒屋の、上忍がよく使用する個室。

 広い室内で、広い卓を挟んで向き合う上忍二人。

 一方のアスマは辟易した様子で酒を煽っている。

 そして問題のカカシは、なんとも機嫌の悪い様子。

「だいたい何だてめぇは。帰還したら中忍センセイの煮物をご馳走になりに行くんだとかなんとか……転がり込みに行くような事をぬかしていやがったじゃねぇか」

 というアスマの言葉に、

「俺だって好んで髭なんかと疲れた体で酒を煽りたくはないね」

 というカカシの言葉。

 完全にとぐろ状態である。

「ガキじゃあるめぇし。ダチを女に寝取られたくらいでぐずぐず言ってんじゃねぇっつーの」

「あの魔女め………」

「それにしても」とアスマはカカシの言葉とは無関係に、酒を口に含みながらおざなりに切り出した。

「お前にしちゃ手が遅いなぁ。だから横取りされちまうんだぜ?」

 女に不自由した事が無いカカシの身のうちを知る腐れ縁のアスマは、ある意味感心したように鼻から長い息を吐いた。

「当たり前だ。どの面下げて言えるよ」

「ん?何を」



「俺はすっかり、信頼できるナルトの先生。気楽に話せる良い友人、だ……」



「…………」

 急に声調が落ちて落胆の色を見せるカカシ。

 猪口を持ったまま、そこにゆれる水面を見つめて俯く銀髪の腐れ友。滅多とみないその姿にさすがのアスマもかけるべき言葉を選んだ。

「でもお前はそれで楽しそうだよな?」

「まぁ…な」



 イルカ先生と話す事が楽しい。

 食事をともにするのが楽しい。

 ただなんとなく、彼の気配がする部屋に転がり込んで寝そべっているだけでも楽しい。



 存在そのものが、「好き」だ。

 証となる、触合いも、繋がりもいらない。

 ただ、いてくれれば良い。



「今が続くなら……俺は別に何も言えなくてもいいかな…とか思うんだ」

「そうか」

 銀髪に見え隠れするカカシの瞳に曇りが伺えない。

 アスマは納得したように一度ゆっくりとうなずいた。

 だが、

「………でも、魔女にだけはやりたくなかった…」

「あ~、そうかいそうかい」

 アスマは苦虫を潰して少しでも、カカシの事を殊勝なことを言うと感心した己を責める。

「そうやって愚図を言うくらいなら、言うこと言って、やるべき事はやるんだな」

 お前らしくもねぇ、と結んでアスマは空になった猪口に酒を注いだ。



 一晩経てば、酒の酔いと共に忘れてしまうだろう。

 そうたかを括って適当に受け流せば良い。

 つまみの豆を口の中にほうる。

 真似るようにして、カカシもうな垂れたまま一粒の豆に手を伸ばした。



 口の中に放った豆は、まだ青臭い味がした。







 ほろ苦い青豆の味が、

 翌朝になっても抜けない。











「イルカセンセ!」

 任務報告所に、明るい女の声がした。

 その声に名を呼ばれたイルカは、声の主に気がつくと笑顔で顔を上げた。

「紅先生」とその名を呼び返す。

「今日もご苦労さまです」

 下忍任務の報告書を受け取り、文字列に視線を落として筆を動かす。

 机越しにその様子を見下ろす紅は、柔らかな笑みを見せていた。

 

「…………」

 その二つ後ろに並んでいたナルト、サクラ、サスケは、これから提出する書類を片手に、珍しいものを見るような眼でその様子を眺めていた。

 カカシが長期任務から帰ってきてから数日が経っている。

 何故か最近、任務報告をやらされる。

「最近、紅先生とイルカ先生って仲いいんだなぁ」

 というナルトの小声にサクラは小首をかしげた。

「喧嘩でもしてるのかしら。カカシ先生と」

「ふーん……」

 おざなりなサスケの声が返る。

 三人の下忍達の前では、いつものように書類に書き込みをするイルカと、その傍らに立つ紅が時々言葉を投げかけている背中があった。



 書類を差し出した手は、見慣れた小さな手だった。

「ん?」

 とイルカが顔を上げると、元生徒が三人並んでいた。

 ご苦労様、と笑みと共に声をかけてから、イルカは素朴な疑問を口にする。

「今日もお前らが提出か?カカシ先生はお忙しいんだなぁ」

 汚い字で書き込まれた書類を見ながら、苦笑いと共に書き直してゆく。

 事務机の端に腰を下ろし、腕組みをしている紅。

 無言で四人の言葉を聞いていた。

「あれ?」

 筆を動かすイルカの手に、白い包帯が巻かれている事にナルトは声を上げた。

 腰を僅かにかがめてイルカの顔を覗き込んでみれば、頬には擦り傷などが残っていた。

「どうしたんだってばよ、それ」

「ん~?」

 ああ、これか、と傷のついた手の甲をひらりと動かして、イルカは苦笑した。

「イルカ先生、昔から野外実習のたびにドロドロになったり怪我してたもんね」

 小さなため息がサクラの口からこぼれる。

 言うことを聞かない子供を追う内、知らぬうちに常に小さな傷をこさえている。

 傷と泥と汗でいつもどこか汚れていたが、

「先生らしいってば」

 というナルトの言葉どおりだと、サクラもサスケも思うのだ。

「………」

 子供たちの言葉を耳にしながら、紅は事務机から離れて、長いすに移った。

 どっかと腰をおろして腕を組む。



 そして相変わらず無言のまま。





 ナルト達が帰っていく頃には、報告所から人気もほとんど消えていた。

 報告所中央に並ぶ長いすに背中を預けて本に目を通していた紅は、人気が薄くなった事に気づいて顔を上げた。

「ねえ、イルカ先生」

「何ですか?」

 机周りを片付けながら、耳に心地良い低く起伏の無い紅の声を聞いていた。

「最近、カカシと会わない?」

 ふと手を止めて、イルカは顔を上げた。

 逆光のために、細かい表情は読み取れないが、イルカは軽く肩をすくめる仕草と共に首をかしげている。

「そういえば、そうですね」と思い出すように言う。

「以前はよく遊びに来られてたんですが。でも長い任務に出る、というお話は聞いていたので…きっとお疲れなんでしょうね」

「ふうん…」

「でも、ちゃんとナルト達の面倒はいつも通りに見て下さっているみたいで、安心していますよ」

「ふうん…」

 一つ返事をするたびに、いぶかしげに眉根をひそめる紅。

 だが、イルカからも紅の顔は影につつまれており、気づくすべも無い。

「俺はもうこれで失礼しますが、紅先生はまだここで何か?」

 書類を束ねて抱え、出口に向かって歩き始めるイルカに、紅は長いすから腰を上げて小走りで追いかけた。

「ご一緒していいかしら」

「喜んで」



 自然な笑みと共に帰ってくる返事。

 曇りの無い声調。



 一縷の不安が胸によぎって、紅は唇を噛んだ。





 もう、数日前になる。

冷たい雨の夜。

 窓をたたく雨の音が、脳裏に浮かぶ。







 チャクラを使っているとはいえ、大の男一人を抱えて長い雨道を来るのは、さすがにしんどかった。

 濡れたイルカを連れて家の中に入り、寝室を探ってつれてゆく。

 すっかり水を含んだ上着を脱がせて、洗面所から引っ張り出してきた湿り取り布でぬぐった。



 体中についた傷や痣に触れぬよう、羽を扱うようにして。



 イルカの体を拭いたところで、紅は自分もしとどに濡れている事にようやく気づく。

 長く伸ばした黒髪は、まさに濡れ羽色となって水滴をしたたらせていた。

 白い装束も、水分を含んで肌に吸い付いている。

「私が風邪ひくじゃないのさ…」

 体を重くする衣服を脱ぎ捨てた。

 薄暗い部屋の中で、紅の白い体が幻のように浮かびあがる。

 裸体同然だが、どうせ誰も見てやしない。

 ましてや、イルカは意識も無い。

 身軽になってちょうど良いと、紅は再びイルカの元へ。

 寝台の脇に座らせていたイルカの脇下に手を添えて、寝台に寝かせるべく支えて持ち上げた。



 と…



「きゃっ!」

「っ…」

 くぐもった音が重なった。

 濡れた床で足を滑らせた紅が、イルカもろとも寝台に倒れこんだのだ。

 イルカを下敷きにした形。

「……ん………」

 呻き声に似た、イルカの声が漏れた。

 紅が慌てて寝台から体を起こすと、そこにはだが、何事も無かったように眠るイルカの面持ちがあるだけ。

 相変わらず、眉間には息苦しそうに皺が寄せられているが。

 それでもだいぶ、呼吸が規則正しくなっていた。

 時おり擦れた寝息がする。

「………まったく…」

 深いため息をついて、その傍らに腰を下ろした。

 半裸で寝台の上にて寝息を立てる男と、その傍らでほぼ全裸の女。

「場末の娼婦とろくでなしの男、とでもいった風かしら」

 上からイルカの寝顔を覗き込むと、寝台が二人分の体重に微かな安っぽい悲鳴を上げた。

 窓を打つ雨と、

 微かな寝息と、

 そして寝台がきしむ音。

 

「………傷の手当てをしなきゃね…」



 また寝台がきしむ音がした。

 薬箱を探してその場を立った紅の影が、薄暗い室内に伸びて、そしてゆれた。






月に一度、そこには花が飾られている。

毎月、ある決まった日に。



物を言わぬ石のそばに

物を言わぬ者達の名が刻まれた、そのそばに、

寄り添うように置かれた花束は、いつも白。



戦死者に手向けられた、真実の献花。



忘れ去られた墓石。



でも、里の誰もが知っていた。

時折見かけるたびにそこにある、



純白の花。



時にその白い花弁に、朱色の雫が散っていることも。



戦死者の、血の涙がそこに降り注いだのだと、ひそかなる噂もあった。

だけど、誰も口にしない。

声なき噂。



もうすぐ、

その献花の日。



「ホントに?」

「嘘じゃねぇよ!それが今日なんだって」

「14の日、日が沈みかける時間になると、幽霊が出て来るんだって」

「その幽霊が、あの汚い石碑に白い花を添えて消えるんだ」

「で、時々その白い花が、石碑が流した血の涙に濡れてるの」

 子供たちが、そんな噂話をしている。

 幼い子らが誰でも好む、怪談話。

 温和な里での生活の中での、ほんの児戯。

「……」

 任務報告書を、人気の無い中庭の木の上で書いていた紅は、真下から聞こえてきた子供たちの会話に筆記用具を動かす手を止めた。

 真上の木の上に、黒髪の上忍がいるとも知らず、子供たちは内緒話に盛り上がっている。

 少年二人、少女一人の三人組。

 おそらくは、下忍候補か。

(「白い花の幽霊」か……)

 知らず口端に笑みが漏れた。

 月に一度、そこに欠かさず献花する者がいる、という話は知っているが、

 十二年前の悲劇を知らぬ子供たちにとっては、あの石碑の存在自体が一種の怪談話のネタになるのだろう。

 大人らの目には「ただの物好き」「感傷屋」、という現実ではなく、

 子供たちには魅力的で神秘的な奇譚なのだろう。

「見に行こうぜ、今夜」

 仕切り屋な少年が、人差し指を天に翳した。

「幽霊が出たら、どうするの?」

 少し気の弱そうな少女が両肩を竦める。

「もちろん、捕まえてやるんだよ」

「でもそんな夜に勝手に里の外れに行ったりしたら…誰かに見つかったら怒られちゃうよ」

 慎重な少女の意見に、「まあな」と少年達は珍しく素直に一寸の理解を示した。

「特にイルカ先生に見つかったらなぁ……」

 苦笑いと共に少年二人は、顔を見合わせた。

 常習犯なのだろう。



(……あら)

 聞き知った名前の登場に、出掛かった紅の欠伸が引っ込んだ。



「拳骨で頭はたかれるだけじゃ済まないだろうなぁ…」

「本気で殴るんだもん、イルカ先生」

「それに、イルカ先生に怒られるとなんだか………」

「何?」

 内気そうな少女が、両手を胸元で結んで添える仕草をする。

 唇を軽く噛んで。

「ここら辺が、すごく痛いよ」

「…………………」



(……………)

 少女の言葉を聞きながら、紅は筆記用具を口先で加えて揺らしている。

 沈黙の合間を縫って、一陣の風が通り過ぎていった。



「み、見つからなきゃいいんだろ?大丈夫だって」

 沈黙を打ち破って、少年がこぶしを握る。

「そうだよ。それに俺達、忍者になるんだぜ?幽霊ぐらいで怖がってる場合じゃねぇよ」

「でも・・・」

 まだ不安を拭い去れない少女が、迷いを両眼にあらわしている。

「大丈夫!じゃあ今日、六時に藤門で待ち合わせな!」

 沈みかけた気持ちを奮い立たせながら、少年と少女たちはその場から離れて行った。



「…………」

 枝葉の間から顔を出し、気配が完全に遠ざかって行ったのを再確認する。

 音を立てず、紅が枝上から降り立った。

 子供たちの秘密会議の場所。

「幽霊探索ね……」

 そうして山へ原へと飛び出していった子供らを、泥まみれになりながら探し回る青年の姿が思い浮かんで来るようだ。

「教えといた方がいいかしら…一応」

 余計な節介だ。

 理解している。

 その場に直立したまま視線をくるりと一巡させて、最後に一つ溜息をつく。

 出した答えは、

「まあ、いっか…」

 記入を終えた報告書を手の中で丸めて、紅はその場から歩を進めた。



 通り過ぎた背後に、また風が通り過ぎる。







 報告所にも、学校にも、イルカの姿は無かった。

「海野先生なら、帰られましたよ?」

「ふうん、そう……」

 それは残念、と語尾に零して紅は目の前の受付員に書類を手渡した。

「いつもは夕方過ぎ、夜近くまで残っている仕事の虫なんですが…時折、ぽっと穴が空いたみたいに早く帰る時がありましてね」

「ふうん、そう……」

 受付員の話を聞きながらも紅の返事は明後日を向いている。

 「夕日上忍の朝帰り発言」を知っていた受付員は、意外だとばかりに横目で紅を一瞥した。

「いないなら仕方無いわねぇ…」

 報告所を出て、後は帰るだけとなった。

 沈みかけた太陽が、今は空を藍色に照らしている。

 受付所の方から、紅を追い越してゆく下忍の子供たちの薄い影が、長く長く、尾を引いていた。

 この時間帯を、魔が通り過ぎる時間、禍いの起る時刻、「逢魔ヶ時」という。

「禍い…」

 目の前を掛けてゆく、遠ざかっていく見知らぬ子供たちの背中を眺めてふと、不安にかられた。



-六時に藤門で待ち合わせな!



「……」

 振り返って時計等を見上げる。

 六時、五分前。



 私の足なら、間に合う。

 ちょっと様子を見てから帰っても遅くない。



 この湧き上がった感覚を、信じるならば…。



「………」

 次の瞬間、紅の姿はそこから消えていた。









 藤門。

 木の葉には七色門とよばれる門がある。

 朱門、烏門、空門、土門、金門、銀門、そして藤門。

 火影岩前の広場から七方向に伸びた大通りの終点に立つ、大門、いわゆる、大鳥居が立っているのである。

 そこを越えれば、里の郊外となる。

 林、山、森、田畑が多くなり、里内であるから危険な事は無いのだが、それでも夜になれば極端に闇色が多いその一帯は、気軽に寄り付こうとは思われない。



 薄藤の大鳥居も、逢魔ヶ時の空色に溶け込んでしまい、消し炭色に沈んでいた。

 暮れ時特有の強い空っ風が、バタバタと木々を揺らして音をたてている。

 大鳥居の上に立つ紅は、鳥居の足元に集まった子供達三人の様子を見下ろしていた。

 黒く長い髪は、不規則に流れる風にはためいて耳元で耳障りな音をたてる。

 顔にかかる髪の毛を書き上げて、紅は腕を組む。

「じゃあ行こう」

 そうきっかけを出した少年を皮切りに、小さな三つの影は鳥居から外に向かって小走りに走り出した。

 上からその足跡を見下ろして眼で負う。

 ちょうど良い距離をとったところで、鳥居の上から飛び立つと、音を消しながら後を追った。

 確かにこの方は、慰霊碑の広場。



 真っ直ぐと伸びる道の両脇は林に挟まれており、それも次第に道幅が狭くなり林は森となり、闇色も濃さを増す。

 それでも、三人の子供達は殊勝にも前に進む。

 ことに、二人の少年の背中の影に隠れるようにしている少女も、周囲に気を回し耳をそばだてている。

 いつ襲い掛かる敵にも対応できるように。

 無意識の行動。

(案外、一番のやり手になるのはあの女の子かもしれないわね)

 木の上を飛び移りながら子供らの行く先を眺めている紅の目にも、そう映る。

 

 狭い獣道のような道をしばらく進むと、急に森が開けて野原に出る。

 盆地のように、周りを森で囲まれていながら、そこだけ穴があいたように広がった岩肌の原がある。

 まるで影絵のように、原の向こうから上る月影の中に浮かび上がる、いくつもの岩と、

 そして、その中央に忘れ去られたように置かれた人工の岩。

 墓標が浮かぶ。



 一帯が見渡せる草むらに身を潜めて、子供達は声と気配を殺した。



 紅は、そのすぐ頭上の木立に立つ。



 夜の風は、煽ち風となって野と林を吹きぬける。

 耳元を乱暴に通り過ぎる風は、足元の枝葉を揺する。

 いくつもの声が重なって唸りをあげているように、空気が鳴いている。



「まだ花は無いね」

「……どっちの方から来るのかな…」

 風に混ざって子供達の微かな会話が紅の耳に流れてくる。

 それに促されるようにして紅も視線だけで辺りを見渡した。

(……………得に禍々しい気配は無いようだけど…)

 と直後に

(・・・何やってるのかしら私…)

 と言いようのない疑問が湧き上がってくる。







 そこへ…



「……?」



 風が止んで、

 耳が痛いほどの静寂が辺りを包み込んだ。



 満月が、

 空を覆うほどまでに昇りつめていた。



 その光の中に、

 浮かびあがる白い幻想。



 花。



「……来たっ…」

「しっ…」



「!」

 蛍のように、宙に浮かぶ花。

 白い鬼火のよう。



「…あれは……」

 と思えばそれは、

 花束を手にした人影だ。

「ゆ、幽……」

 喉が引きつったような子供達の声が擦れた。

 満面の月光の中で、逆光となった人影は、白い花束を片手に原の中央へと歩み寄る。

 止んでいた風がまた、そよぎ始めた。

 雲を運び、わずかに強い月明かりを弱めた。

「あ、あれ………?」

 月光の下、明らかになる人影の正体。



「い……」

「イルカ先生……?」

 先にそれと分かったのは、感覚の聡い子供達だった。

 寸時遅れて紅もそれに気づいた。



 慰霊の場に現れた、幻の献花主。

 その正体は、幽霊見物に来たこの幼い子供達もよく見知っていた教師だった。



(イルカ先生………)



 それは、紅といえども同じ心情。

 木立の下、足元にいる子供達の事を一瞬忘れて、紅はそこにある情景に見呆けていた。



 黒髪の、平凡な面持ちの男が、花の束を片手に垂らして慰霊碑の前にたたずむ。

 それが、月光の中で絵画的な情景にうつるのだ。

 美とも違う幻想。



 花を片手に抱えたイルカは、慰霊碑の前に片膝をついた。

 茎を束ねていた紐をほどき、いとおしそうに石の前に並べていく。

 小さな花の泉がそこに出来上がる。

「……何、してるんだろうね…」

「何でイルカ先生が」

 紅の足元からささやきが聞こえてくる。

 どれも紅を代弁しているよう。



(…本当、何してるのかしら……)



 ただ、物言わぬ石と、並べられた花の前で、

 ただ無言で向き合っているだけ。



 声無き会話がそこで交わされているようにも見える。



 風の音しか存在しない空間。



 そこへ、



「!?」



 新たに黒く長い影が差し込んだ。

 首ごと紅は現れた気配の方を向き返る。

 イルカの背後方向から差した、黒い影。

 四つ。

「…………」

 背中にかかる影の現出に、イルカはゆるりと立ち上がった。

 その背中に、



「おい、狐丁稚」



 と荒い声がかかった。

 それに重なって、「狐憑き」「狐丁稚」と蔑む言葉が続いた。

 イルカは背中を向けたまま、花の泉を見つめていた。



「…………」

 紅の眉根がひそんだ。

 子供達は、言葉の意味がよく汲み取れずにきょとんとしている。ただ、そこに漂う空気の変化が劣悪である事だけはわかる。

 

「…っ!」

 大きく丸い瞳を見開いて、紅は息を呑んだ。

 白い月光の中に隠れるように、

 銀の刃光が煌いたように見えたからだ。



 敵か。

 否。

 いずれも木の葉の面々。



「いけない……っ!」



 引きつったような叫びが

 掻き消える。









 いつも、笑っていた。

 いつも、誰にでも優しくて、

 ことに子供達には、まるで兄のように、父親のように、



 そして母親のように、



 彼は全てに愛情を向ける。



 彼は、知ってしまっているから……



 知らない人達のために……



「え…?」

 草陰にかくれていた少女が思わず腰を浮かした。

 銀色の光景の中で、さらに煌いた微かな銀色。

 それが刃物であると本能的に察知して、体が反応したのだ。

 ほぼ同時に、頭上の木枝から飛び降りる黒髪のしなやかな影が風のように通り過ぎていった。



「いけないっ…!」



 という引きつるような叫びと共に。



 紅が枝を蹴るより前に、刃物を振りかざす人影はイルカに向かって地を蹴っていた。

 風によって遮られ、聞き取れなかったが、何等の雑言を吐き捨てる。



(間に合わない……!)

 瞬間的に紅の脳裏に、突き刺さるように絶望的な推測が浮かぶ。

 稲光ほどの一瞬の間に、様々なことが脳裏を駆け巡った。

 イルカに向かって突き進む男の影と、そして同じく全速力をかけてそこに駆け寄ろうとする紅。

 思考の結果、紅の口から出たのは、

「逃げなさいよ!!」

 という叫び。



「え…?」



 覚醒したようにイルカが声の方に僅かに首と体を回した。

 手をさし伸ばしてこちらに駆け寄る黒髪の姿を視界にとらえ、イルカの目の色が変わった。



 来 る な



 彼の口がそう形取ったように見えた。

 その声も、男たちの声や、風の音にかき消されてしまったが。



 直後、

「っ…」

 舌打ちに似た短い息と、何かが裂けるような音がした。

「ちっ!」

 標的がわずかに動いた事で狙いを外した男の舌打ちが、直後に重なる。

 小柄の刃先が、紅の方を振り向いたイルカの脇腹に



 突き立っていた。



 どこからともなく、少女の短い悲鳴がした。

 それに続いて、

「バカ……野郎!!」

 骨が当たる鈍い音。

 イルカの体に接触していた男の体が、一気に押し出されるように吹き飛んだ。



 いっそうに強く輝く月光。



 何が起きたか、突如現れた現象に、飛ばされた男はもとより、ともにやってきた男たちも

 驚愕を顔にして目を見開いた。



 拳を振り下ろした姿勢の黒髪のくの一が、

 月光の中に浮かび上がったからだ。

 後ろで、脇腹を抑えながらも立ちこらえる中忍をかばう様に立ちふさがるくの一、それが上忍の夕日紅と知る。

 紅は、イルカの脇腹に刃を突き立てた男の顔面を、全身の力で殴り飛ばしていたのだ。



 風景がそこで止まったかのようだ。

「…………」

 子供達は体を震わせ、その場に座り込んで言葉も出ない。



 イルカの背後に置かれた白い花には、

 飛び散った朱の滴が…



「くれ…ない先生……」

 目の前に立ちふさがるしなやかな背中に向けて、イルカが呟く。

 そこをどけ、と手を伸ばしたかったが、全身の神経が脇腹に集中してしまっているかのようで、指先一本動かすのもままにならない。

 ただ、その獣のようにしなやかで美しい背中を朦朧とする視界で捕えている事しかできない。



 一方の暴漢達は、

 森から現れた獣神のあらましと見紛う、黒髪の上忍に見据えられて動きを止めていた。

「う………く……」

 静かだ。

 だがこれほどに激しい怒りがあるだろうか。

 

「消えろ」



 ただ、そう一言発した紅の言葉。

 地の底から這い出た、怒りの触手。

 これ以上ここにいては、飲み込まれて身を焼き尽くされる。

「く……ッ」

 本能的に恐怖を感じ取った暴漢達は、上ずる声を抑えながら背を向けた。

 そしてそのまま、姿を消す。



 一目散に、複数の気配が遠ざかった消えた。



 見送るまでもなく、紅は背後に向き直った。

 体重を支える力を無くしかけたイルカの膝が、同時にがくんと折れた。

「!」

 両脇に手を通して、男の体を支えた。

 正面から抱き合うように、イルカは紅の肩に顔をのせる。

 その脇腹から流れる朱色が、紅の装束を同じく朱色に濡らしていた。

 じわりじわりと感じる、熱。

「………」

 倒れないように、

 衝撃を与えないように、

 ゆっくりとイルカの体をその場に横たえた。

 応急処置にと、服の裾を破り、包帯とした。

 それを服の上からイルカの腹に縛り付けた。渾身の力で。

 わずかにイルカの呻声が漏れたが、それでも。

 とにかく、流れ出る血液を塞き止めるため。

 包帯はみるみる朱色を帯びるが、それでもそれ以上の血液の溢出を断ち切ることが出来た。

「…」

 そこまで終えて、紅はその場から立ち上がった。



 草陰で震えていた子供達が、びくりとさらに肩を震わせる。

 その小さな気配たちに向かって、紅は歩を進めた。

 月光を背に、少しずつ近づいてくる美しい獣神に、子供達はただ恐怖の混ざった色を瞳に浮かべて見惚けるしかない。

「う………」

 無を面持ちに浮かべて見下ろす紅に、少年達は視線を捕えられて硬直した。

 同じくその黒く大きな瞳に捕えられて身動きをなくす少女。

 だが、

「い……イルカ先生…は?」

 と震える声で必死にそう尋ねた。

「…………」

 ふっ…と、紅の口元が綻んだ。

 胸の前で片手印を結び、

「大丈夫だから」

 と答えた。



 大丈夫だから

「今夜の事は全て忘れなさい」



 紅の細い指先が、

 小石が水面を飛ぶようにして子供達の額に順に触れた。



 糸が切れた人形のように、次々と子供達の体がその場に落ちた。

 三人、体を寄せ合って眠るように。



 この子達はすぐに目を覚まし、この場で見たことを全て忘れて、帰っていくだろう。



 眠った子供達を背にして、紅は再びイルかの元に歩み寄った。

「……」

 見れば、顔色から生気が抜けかけている。

 一抹の焦りを胸に宿しながらも、紅は一度深く呼吸をすると、次に自分がするべき事を実行に移した。

 地に、慰霊碑の前に横たわるイルカの体を抱き起こして肩を担ぐ。

 そして、チャクラを両腕に集中させて力を溜め、

「っふ……」

 大の男の体を支えて立ち上がった。

 意識が朦朧とし、力が抜け切った人間の体は、実際の何倍もの重さとなって圧し掛かる。

 大木を背負って引きずるように、紅は背中と肩にイルカを担いで歩き始めた。

 夜露に湿ってわずかにぬかるんだ土に、足跡が深く残る。

「しっかり……っ!」

 徐々に重たくなるイルカの体。

 誰に向けた叱咤か、紅は何度もそう繰り返しながら、痺れそうになる腕に尚も力をこめて、

 イルカの体を支えて歩き続けた。



 朝。

「無断欠勤?」

 ヒナタら、紅班の子供達が、やり場がなさそうに任務受付所へとやってきた。

 任務依頼書を受け取ったカカシら七班は、もう二日も紅が無断欠勤していると聞いて半ば呆れた。

 と同時に、胸中に沸き起こった薄暗い渦がカカシを襲う。

「先生ん家に行ってみた?」

 時折、大遅刻をするカカシをたたき起こしに、七班はカカシ宅に出向く事がある。

 サクラの提案に、紅班の子供達は顔を見合わせて「どうしようか」と困り顔。

 結局、事務局から住所を聞き出して紅宅に向かう事で話は終わった。

「じゃ、俺達もとっとと行こうか?」

 カカシはナルト、サクラ、サスケを連れて、森へ薬草摘みに向かうべく、受付所を後にした。

 渡り廊下からアカデミーの建物を経由して外に出る。

 長い渡り廊下は大きな窓が幾つも並び、陽光を浴びて白光に輝いている。

 ここは、様々な人間が渡り歩く。

 アカデミーの教員、戦任務から帰った戦士、そして子供達も。



 その途中、



「今日も無断欠勤か…。一体どうしたんだ?」

「まったく…」

 と愚痴をこぼす声とすれ違った。

(………)

 書類を両腕に抱えた、事務局の人間らしき二人組みが、ちょうど七班らの脇を通り過ぎていくところだった。

 紅の事か?と軽く肩を竦めてカカシは特に気にする事なく廊下の先を目指した。



「イルカ先生にも困ったものだ……もう三日目だ」



「?」

 内証話ほどの言葉端が、鼓膜を突き破るように鮮明に強く、カカシの耳に突き刺さった。

 肩越し、通り過ぎてゆく二人の事務局員の背中を振り返った。

「……」

 そしてすぐ、ナルトを振り返る。

 当のナルトはサクラやサスケと共に廊下のだいぶ先を歩いていた。

 今の言葉には、気づいていない。

 瞬時の間にカカシの脳裏が葛藤する。

 この二人の事務局員を引き止めるべきか、

 それともナルトに悟られないよう、知らぬ振りをすべきか。

「………」

 カカシが選んだのは…―

「カカシ先生はやくー!!」

「森につく前に日が暮れるってば!」

 廊下の向こうからはやしたてる子供達。

「あーうるせぇ。今いくよ」

 後頭部を掻きながら、そこへ向かう。





 薬草摘みは子供達に任せて、銀髪の上官は相変わらず木の上で読書にふける姿勢。

 いつもの事ながらも、文句を口にしながら子供達は懸命に薬草を探して森の中を歩き回った。

「………」

 木の上の上官は、愛読書物を片手に、太枝に体を預けて横たわっていた。

 だが、その視線は先ほどから文字の羅列を追ってはいない。

 

 もう三日も姿を消しているという、イルカと、

 無断欠勤して三日目だという紅。



「三日?」

 冷静に考えてみれば、

「……何かあったとしか思えないだろうが………」

 出てくるのは単純な結論。

 カカシは本を顔の前から離すと、木の下にいる子供達に視線を向けた。

 大海から小魚の卵を見つけ出すような手際の悪さで、でも懸命に叢からほんの僅かな薬草を探しては摘んでいた。

 何だかんだ言っても、それなりに熱中している。

 その様子は三つの小さな小動物がごそごそと蠢いているようだ。

「…………」

 本を懐に仕舞うと、カカシは顔の前で小さく印を切る。

 そして、その場から音を立てずに飛び去った。

「………?」

 ごく微小な空気の変化を直感的に感じ取って、サスケは顔を上げた。

「どうしたの?」

 いぶかしげなサスケの面持ちに気づいてサクラも、手を止めて顔を上げた。

 サスケが見つめる先、

 頭上。

 木の上で寝そべって読書をする、上官の姿。

「カカシ先生がどうかしたの?」

 いつもと変わらない光景がそこにある。

「……いや…」

 とだけ答えてサスケは視線を下ろした。

 少し離れた所で、叢に体をほとんど隠してもぞもぞと動いているナルトに視線を向ける。

「………」

 疑問符を浮かべたサクラは、サスケとナルトとカカシに交互に視線を送る。

「なんでもない」

 そういってサスケは再び作業に戻った。

「え?」とサクラはきょとんと目を丸くする。

 だが、手にしていた袋がまだ半分も満たされていない現実に気づき、

 すぐにまた作業に熱中し始めるのだ。



 木の上では、相変わらず愛読書片手に、惰眠気味の上官。







「……とはいえ、どうするかね」

 影法師の術を施して一時的に子供達を欺いて、ここまでやってきたは良いが…。

 ふと我に戻ってカカシは苦笑する。

 戻ってきたのは、里の郊外。長い長い痣道の途中だった。

 ここを東に行けば、イルカや紅やアスマや…、多くの忍達がひっそりと自宅をかまえる郊外。

 西に行けば、学校の方向。

 とりあえず…と東の方向にきびすを返した。



 すると、

「……?」

 人の気配を感じた。

 東の方。

 何か、高速で移動していく人の気配がするのだ。

 それが、切羽詰まった、鬼気迫るものに感じる。

 野戦場を移動していく時の、忍びに似ている。

「……」

 その気配に覚えがあった。

「あいつ…」

 移動してゆく気配の方に向けて、カカシは地面を蹴った。

 そこに追いすがるべく、あらん限りの速度で。

 森に囲まれた郊外の民宅地。

 その木々を伝って、遠回りに西に向かう気配をとらえた。

 枝葉が風でゆれ、断続的に激しい音をたてている。



「っ…おい!」

「!!」



 カカシに気がつかず移動していた人影。

 背後から追いすがって肩を掴み、カカシは人影を呼び止めた。

 ひどく驚いて、人影は強引に足を止める。体の均衡を失いかけてぐらりとゆれる。



「誰……カ、カカシ!」

 額から汗を流す紅の横顔が、勢い良くカカシを振り向いて、そして吃驚した。

「………何やってんだお前は」

 息を切らす紅。

 その頭からつま先までを眺めてカカシは目端を細めた。

 

「お前…」

 紅の両手が、赤く汚れていた。

「怪我でもしたのか?何が…」

 その細い両手を掴んで、赤い汚れの正体を確かめる。

 分かりきっている事。

 これは、

 血液の匂い。

 乾いて黒ずんだ血液が、紅の白く細い指先を汚していた。

 

 カカシを括目したまま、肩を上下させて息を切らす紅の様子に、

 さすがに不穏を感じてカカシは声調を落として問い掛けた。

「何してんだお前……どうし…」

「バカ!!」

 張り倒すように紅の怒声がカカシにぶつけられた。

 腹をたてたい所だが、尋常でない様子にカカシは無言で紅の言葉を促す。

 紅は、更にたたみかけた。

「あんたこそ何してんのよ!受付で場所を聞いて森に行ってみればそこにいたのは影法師だし……っ!」

「…俺を探していたのか?」

 紅の答えが予想外を突き、カカシは絶句するように括目した。

 その仕草が紅の怒点をさらに刺激したか、彼女は更に何かを怒鳴ろうと口を開きかけた。

「………」

 だが、

「……あ~あ、そうよ」

 とそれが諦笑に変わった。

 カカシに対する、嘲笑、とも言えた。

「あたしがバカだったんだ。何を必死になって、こんな奴の事を……」

「だから何があったんだ」

 掴んだままの紅の、血で汚れた両手をさらに強く握る。

 紅は、それを振りほどいた。

 額の汗が、飛んだ。

「好きなんでしょ?なら何で分からないの!?何で離れたままなの!」



 イルカ



「………何があった…何が…、まさかその血が…」

 血の気が引いた、というより…

 内臓が冷水で満たされる感覚。

「もういいわよ…あたしがバカだったんだから……」

 侮蔑の笑みを残して、紅は踵を返そうとした。

 疲れた体を押すように、それは覚束なかった。

「待てよ」

 支えるようにそれを引き止めて、紅の肩を掴む。

 激しく、紅が拒否を示した。

「あんたなんかもういい。来なくていいわよ」

「良くない。だから俺を探してたんだろうが」

「いいの」

「紅!」

 何度も引き止めるようにして差し出されるカカシの手。

 何度も拒否をする紅の腕。

 何度かそれを繰り返す。

「……あんたなんか……」

 カカシに背を向けた紅が、呟く。押し殺した憤り。

「………」

「あの人に今必要なのは……」

「………」

 再び手を伸ばしかけてカカシは止めた。



 その先の言葉を、求める。

 背を向けた紅のしなやかな肢体。

 僅かに、震えているようだった。

 静かに。



「あの人に今必要なのは、安っぽい友情ごっこなんかじゃないのよ」



「……………」

 耳障りなほどの静寂。

 カカシの無言が、紅の胸を刺す。

 塞き止められない言葉が、溢れた。

「傷つく事に慣れている人なんていない。いつも笑っていられる人なんていない。知らなかった…。あんな……」

 知ってた?

「あの人が、本当はいつも寂しくて、悲しくて、怯えていた事を……」

 知ってた?

「いつも与えているばかりで、自分が飢えている事に気づかない」

 何を…?



「………」

 鼓動と息遣いしか聞こえない沈黙の空気。

 

 ふ…と、

 紅が肩越しに振り向いた。

 混濁のみを映していた闇色の瞳が、聡ったような色をしている。



 音の無い笑みを、口元に浮かべた。

 それは、嘲笑ではなく…

「女ってのはね、カカシ……母親になれるのよ」

 母親。

 その言葉と同時に長い息を呑んだカカシに、

 紅はもう一つ、静かな笑みを向けて体ごと振り向いた。

「誰だって、あたしだって、あんただって…この中で守られて、生まれてきたんだ」

 腹部に手を重ねて、まるでそこに命が宿っているかのように、優しく撫でる仕草をした。



「あの人に必要なのは、そういうもの」



 分かる?

 幼子に事を諭すように、少し俯いて微笑んだ。

 

 ―こいつがこんな表情をするなんて知らなかった……。

 カカシは愕然とも呆然とも、一種、恍惚にも似た感情を抱いた。

 

 気がついたら、足が動いていた。

「どこにいる?」

「彌岬療院」

「彌岬……」

「あたしが運んだの」

 それは、闇任務などで傷ついた忍達が世話になる、裏の療院。

 表沙汰にされず闇に葬られて死んでいく者も、そうした所に担ぎ込まれる。

 その療師である彌岬とは、カカシも顔が知れていた。



「…………済まない」



 そういい残してカカシは、

 

 地面を蹴って走り出した。








「しっかり…!」

 掻っ捌かれた傷を荒療治している間、紅はずっと、イルカの手を握っていた。

 もう、強い痛み止めも効かないのだという。

 だがそれ以上に強すぎる痛み止めは、患者を廃人にしかねないので多用連用が出来ない。

 噛み布を口に含み、舌を噛まぬよう食いしばりながら治療に耐えるしか、無いのだ。

 そういう忍びは、少なくない。

 だが、そうなる前に、たいていは死んでいるか、もしくは気が狂うか、それとも凄惨なほどに強くなっているか……だ。



 普通に、笑っていられる者などいるはずもない。



 戦場に居るのではと錯覚するほどの荒療治の中で、紅は背筋に寒気を覚えた。



 治療を終え個室に移ってからも、痛みと熱が全身を蝕みまともに呼吸さえ出来ない。

 

「しっかり…」

 ただ手を握って、それしか言えない自分に、



 腹が立った。



 彌岬療院は、北門近くの竹薮通りに面した曠野にある。

 里まで命からがらたどり着いた忍らが、ここに転がり込んで来るのだ。

 無遠慮に扉を開くと、戦時には血塗れた人だかりでごったがえす玄関間が、今日は死に絶えた荒野のように沈静だ。大股に敷居を跨いで中に入ると、

「静かにしな、馬鹿者」

 と凛とした低い声がそれを戒めた。

 カカシの右手方向から、影が伸びてくる。

 峠を過ぎた陽光が、そろそろ西日となって熱く、赤く、里を照らし始める。

 光の届かない竹薮の隙間をぬって差しこんでくる光の筋たちが、窓から光線となって広間に模様を描いていた。

 そこに現れた、白衣の女。

 40に入っても尚、若さと美しさと男並の体力を失わない、女治療士。

 岩生彌岬。

 女にしては短く刈った髪は所々純白に色が抜かれている。

 くるぶしまでの長い白衣を肩に羽織ってうでを組んでカカシを細めで眺めていた。

「ここに、男が運ばれてきただろう?」

 挨拶もそこそこに、カカシは大股で彌岬に詰め寄った。

 鬱陶しそうに一歩体を引いて彌岬は首を傾げた。

「ああ、イルカちゃんの事かい?」

 イルカちゃん、だぁ?

 そう内心で毒づきカカシは「そうだ」と短く頷いた。

「いるんだろ。どこだ?」

「常連だからね。特別に日当たりの良い部屋さ」

「……常連?」

 カカシの両目がいぶかしげに細まった。

 目端が痙攣を起こしたように、一度震えるのを、彌岬は見てとらえる。

 兆発するように、答えた。

「そうだよ。月に何回かね。多い時は一週間と間を置かずに来てくれるのさ」

 女一人のこんな寂屋にね。

 その茶化した口調とは裏腹に、彌岬の眉間には影がさしていた。

「な………」

 カカシは息を呑んだ。

 彌岬とて付き合いは長いはずだったが、こんな様子を目の当たりにするのは、初めてかもしれない。

 あのカカシが、動揺しているのだ。

「まあとにかく、来なよ。見舞に来たんだろ?にしては手土産が無いようだけど」

 白衣の袖を翻して彌岬はきびすを返し、暗い廊下の方へと消えていった。

「………」

 目を覚ましたように我に返ったカカシは、その後をついていく。

 日の当たる玄関とは違い、奥の病室へと続く廊下は暗い。

 このまま地獄まで連れて行かれるのではないかという錯覚を、怪我人の時には思ったものだ。

 そして、今も。

「こっちだよ」

 病室が並ぶ廊下ではない、更に奥へと続く細い廊下の方から、手招きする彌岬がいる。

 床板が鳴らない程度に小走りに、カカシは招かれた方へと進んだ。

 短い廊下だが、ずいぶんと長く感じた。

 竹にさえぎられて光も届かない廊下の奥に、

「………」

 あの人がいる…。

「この部屋さ」

 部屋の前で、彌岬はカカシに先を譲るように扉の脇に立った。

 行く手を遮る木の扉が、地獄の門の様に、暗がりの中で聳えている。

 そこに手を伸ばしかけて、カカシはわずかに戸惑った。

 扉の取っ手に手を差し出したままの状態で、体が硬直する。

「どうした」

 叱咤する口調。

 臆病者、と罵っているようにもカカシには聞こえた。



-あの人に今必要なのは、安っぽい友情ごっかなんかじゃないのよ



「………」

 普段は決して見る事の出来ない紅の切ないほどに真摯な瞳が、

 突如カカシの網膜に重なった。

(畜生…!)

 自分は何に怯えているというんだ。

 この先にある光景か。

 それとも、ここに来るべき事をずっと知らずにいた自分自身の鈍感さにか。



 扉の取っ手に手をあてたまま静止するカカシを、彌岬は横から無言で待っていた。

 もう、自分で決断できるはず。



「………入りますよ」

 誰に向けたかそう呟いて、カカシは取っ手を下に押した。

 錆び掛けた蝶番が小さな悲鳴を上げて、だが扉は驚くほど簡単に開いていった。

「………」

 あまりの眩しさにカカシは目を細める。

 暗い廊下の行き止まりとなる扉。

 その向こうの部屋は、光で溢れていた。

 板一枚隔てた向こうは、まるで世界が違うようだった。

 この療院で最も日当たりの良い部屋、と彌岬が評したとおり、それ以上に、扉の向こうは陽光に包まれて溢れていた。

 空気の質さえ、違う。



 例えるならば、天国と地獄の差かな…

 

 そよいだ風が、カカシのこめかみを霞めて行った。

「…っ」

 寸時、まるで夢か幻にまどろむように呆けてしまった。

 我に返って、眩しさに対抗して懸命に目を開く。

 眩しくて真っ白なだけの世界が、少しずつ目が慣れた事で色を取り戻してくる。

 すると、次第に見えてきたのは、

 部屋の中央に置かれた寝台と、南向きの大きな窓と、白い布と壁と、

 そして、黒髪と………。



 開け放たれた扉の前で立ち止まるカカシの脇を通って、彌岬が病室の中へ足を踏み入れていった。

 半分ほど開けてあった窓を閉め、薄布の幕を半分ほど引いた。

 眩しいほどの光が少し弱まり、部屋の中はやわらかい光の中で薄い橙色に染まる。

「だいぶ落ち着いたね。汗も引いた」

 寝台の傍らにおいてある水と氷の入った容器から、つけてあった布を絞った。

 水の音。

「………」

 カカシはまた、足音をたてぬよう歩き出す。

 寝台の前に立つ彌岬の傍ら、一歩引いた場所で足を止めた。

 彌岬の体の向こうに見え隠れするのは、

「…イルカ先生……」

 その人が。



 腰まで白布団が掛かっており、上半身は外気に晒されていた。

 腹部から胸元にかけて、白い敷き布団と同化しそうな白い包帯がほぼ全体に巻かれていた。

 ただ、左脇腹あたりに、うっすらと咲いた朱い花らしき血痕が…。

「……」

 カカシが見下ろす中で、イルカは眠っていた。

 呼吸に大きな乱れは感じられないが、だが時折、喉につまったような息をする。

「今回は特に酷かったね。相手も殺そうとしてやったんじゃないのかな」

「…………んで…」

 

-なんでそんな

-里の中でだろう?



 という言葉も、上手く声に出せない。

 そこに、

「教えてあげようか?」

 背後から、影が差した。

「…紅……」

 振り返れば、しなやかな影に相応しい肢体が、入り口に立っていた。

 少し疲労した面持ち。だが、暗い廊下とまぶしい室内との境目に立つその姿は、どこかしら神秘的な、絵画的な印象があった。

 先ほどの事も手伝ってか…。

「いつの間に…」

 彌岬も僅かに驚いたように肩をすくめ、胸前で組んでいた手を解いた。

 気配など、気づかなかった。

 紅は、寝台を挟んでカカシと向かい合う位置に移動する。

 窓からそそぐ光を背に受けながら、イルカが横たわる寝台を覗き込み、

 そして落ち着いた様子に安堵して微笑むのだ。

「教えてくれ」

 姿勢を正したまま、カカシは静かに尋ねる。その隣から、彌岬が肥えをかけた。

「私も聞かせてもらってもいい?一応、『主治医』なんでね」

「いいんじゃない?」という紅の頷き。

 かがめていた腰を伸ばして二人に寝台越しに向き合う。

 ほんの少し、窓からの光が薄れたような気がした。

 それは単に、紅の面持ちに陰りが差したからだけではないのだろう。



「まあ……一言で表すとなれば…私刑…っていうところかしら」



「……」

「…そうかい」



 驚きを表出させる様子は、二人には無かった。

 むしろ、更に濃い影が忍び寄って来たかのよう。

 沈痛。



「この間も偶然…雨の中でボロボロになったこの人を見つけたんだ」

「「この間…?」」

 彌岬とカカシの声が重なった。

 思わず視線を見合わせて、そしてすぐに紅に戻す。

「1週間ちょっと前の事よ」

「ここには来なかったけど」

 と彌岬。

「そりゃそうでしょう。私がこの人の家で看病していたんだから…」



‐朝帰りしちゃった…



 彌岬と紅の会話を聞いていて、カカシの脳裏に浮かんだのは、おどけた紅の台詞。

「……あの時か……?」

「そうよ」

「心当たりでも有るわけ?」

 意外そうに彌岬がカカシを見やった。

「少し…」

「ふうん……」

 その返答の弱々しさから彌岬が現状理解をするのは容易だ。



「何があったのか、聞かせてもらえないだろうか」

 とカカシは紅に向き直る。

「………」

 自分には決して向けた事のなかった柔らかい言葉に使い方だ。

 思わず紅は大きな黒い瞳を見開いて、朱色の唇を開きかける。

 彌岬も、もはや驚く事も諦めて、この顔なじみの銀髪の上忍と長い黒髪のくの一のやりとりを見守る事にした。

「人に物を頼むのには、中々良い態度だわ」



 口はしに笑みを浮かべて、紅は目を細めた。








 その時を振り帰ってみれば、あれは本当に何気ない日常の中に突然現れた出来事だったと思う。

 と、紅は言った。







朝陽   5





 予兆も予感も、何も前触れらしきことは無かった。

 だとすれば、自分の勘の鈍さを呪うべきなのかもしれない。



 日常。

 いつも通り、子供達を引き連れて毛の生えたような任務を終えて、いつも混んでいる受付で報告書を提出し、子供達と別れ、同僚のくの一達と無駄話をしてお茶を飲んで、それから建物を出た。

 ほぼ同時に、雨が降り出した。

 唐突な雨。

 傘など持っていなかった。

(何か、嫌な感じ…)

 濡れて帰るのが億劫で、そんな風に口走った。

 もしかしたらそれが、「予兆」だったのかもしれない。

 

 明日も任務だ。

 帰らなければどうしようもない。

 仕方なしに紅は、濡れるのを覚悟で悠々とした足取りで、外に出た。家で熱い風呂にでも入れば風邪など引かぬだろう。

 自分の体力と健康を信頼していた。

 少しずつ強さを増してくる雨の中、若干足を速めて紅はいつもの道のりを行く。



 とその途中で、

「……まだ開いてるかしら」

 ふと足を止めて方向を変えた。

 紅宅への帰路からわずかに外れた、錆びれた町外れ。

 一般の人間は誰も足を向けない、むしろ一部の忍のみが立ち寄る店があるのだ。

 特注忍具や薬剤を取り扱う店。

 一本気な職人一族が開く、錆びれているのに、何故か中々潰れる様子がない店。

 店構えも全く商売気がなく、錆びれた古屋だ。



 研ぎに出していた苦無が、もう何日も預けっぱなしだった。

「そろそろ取りに行かないと、錆びちゃうわね」

 何せこの湿気が気になった。

 濡れたついでに、取りに行こう。

 ついでに、傘でも借りようか。

 ふと、そう思った。



 相変わらずに錆びれた道並。

 悪路ゆえに水溜りを避けながら歩く。

「…………?」

 ふと、人の気配がした。

 雨音にまぎれて、まるで通りすぎて行くかのように感じた、微かな気配だった。

 完全に無人だと思っていたのに…。

 半ば訝しがって紅は、行くべき道を反れて裏道に入った。

 ぬかるんだ悪路に眉根をしかめつつ、濡れついでに好奇心も手伝って裏を覗く。

「………この匂い…」

 雨独特の饐えた匂いに混ざり合って、鼻腔に不快をもたらす錆の香が漂った。

 慣れているとはいえ、いつもながら寒気を感じる。

 雨に打たれて濡れ鼠となった体が、急に冷え込んだ。

 裏路地の、更に奥へと曲がったところで足を止める。まだ新しい、いくつもの足跡を見た。それを追って、更に更に奥へ。微かに感じる人の気配が、まるで助けを求めているように紅を呼んでいた。

 寒い。

 だが恐怖は無い。

 自然に進む足に任せて、顔だけを覗かせる。

 すると、

「………誰か、いる?」

 薄暗がりの袋小路。蹲るような人影があった。

 呼びかけに、応える気配は無い。だがそれは確かに人間。

「……ねえ」

 何故か放っておけずに近づいてみる。指先に微かな炎を灯してみた。蹲るように倒れる、若い男だった。

 どこかで見たことのあるようなその容貌に、紅は訝しげに目を細めて凝視する。

 雨と泥に濡れて垂れる、束ねた黒髪が見えた。

「え……?ちょっと…」

 せきを切って紅はその場にしゃがむ。

 男の肩に手を掛けて、揺り起こす。脱力した男の体が、紅の手に揺さぶられてうな垂れた。

 顔を見ようと、体を返す。

 泥に汚れた、だが見なれた顔がそこにあった。

「う…みの…先生……?」

 薄闇の中でも、鼻筋を通る傷跡は目立った。男は、アカデミー教師。うみのイルカ。

 炎を灯した指先で、顔を照らしてみる。見ると、泥以外にも彼の顔を汚していたのは、雨と泥に混ざった、血。

「…なんで…?」

 首の下に手を沿えて、しゃがみ込んだ自分の膝にイルカの上半身を抱いた。

 力なくしな垂れる首。

 汚れた顔を拭ってやると、切れて出血した唇や、ひどく殴られ変色した頬のあざが現れる。

 視線を下の方に移せば、破れた服。そしてそこから見えるまだ色鮮やかな傷の数々。

「うみの先生……イルカ先生っ」

 イルカの上半身を抱いて、揺さぶる。途中で、もしやと思いなおして体を離し、イルカの胸元に手を添えて軽く押してみた。

「……っごほ…」

 小さな咳き込みが返る。

「…折れてはいないわね…」

 だが、酷く痛みつけられている。ヒビの一つ二つは覚悟するべきだろうか。

 強く揺さぶって起こそうとしたのを諦めて、紅は一度イルカから体を離した。

「………」

 泥土の上に横たわるイルカの体は、ひどく冷え切って、だが傷の熱と伴って苦しげな呼吸となって口元から細かく漏れていた。

 正常な呼吸ではない。



 とにかく助けなければ。

 そう思い直って紅は態勢を立て直す。

 イルカの脇に手を差し入れて体を起こし、うまく自分の体を回転させてイルカの体を背中に乗せた。力なく垂れ下がる両腕を首の前で掴み、「よっ…」と小さな掛け声と共に膝を伸ばして立ち上がる。

 紅より一回り大きな男の体が、うまい具合に持ちあがる。

「う…」

 胸の圧迫感に、うめく声が漏れるが、紅はその姿勢のままイルカの両ももの下に両手を当ててイルカの体を背中で支える。

 紅の肩越しに、イルカの頭と両腕が重力に従って垂れ下がる。

「……」

 上手く背負えたものの、さてどこへ行くべきか。紅はその姿勢のまま一瞬、立ち止まる。

 だがすぐに決心した。

 二度ほど、玄関先まで行ったことのある、イルカ宅。

 一度は、三代目から預かっていた書類を届に。

 一度は、部下であるヒナタがある事情でイルカ宅に世話になっていた時。

 場所は、覚えていた。

 紅の足は、その方向を目指す。



「……」

 歩き出しかけて、紅は思いとどまった。

 一旦方向を変えて、目的地であったはずの店へと向かう。雨のために固く閉ざされた入り口の前で、

「ちょっと、開けて!おじさん?」

 と大声で呼んだ。

 近所迷惑するほどこの辺りに人家など無い。

 灰色の景色と、断続的な雨音の中で、凛とした女の呼び声が異質に響く。

「開けてちょうだいよ」

 何度目かの呼びかけの後、ようやく扉の奥から人気が現れ、続いて明かりが点った。

 軋んだ音と共に古い硝子扉が開けられて、そこに現れたのは浮世離れしたご老翁。

 大の男を背負って濡れ鼠の若い女に、上から下まで視線を這わす。

 それから一言、「なんだ」と問う。

 雨だれの音と、しわがれて掠れた声が、同化した。

「この人に…」

 応えながら紅は背中に背負った男を見せるように、体を横に向けた。

「何か羽織るものをちょうだい」

「ん?」

 老師は紅の肩に力なく垂れ下がるイルカの顔を、覗き込む。

「人目もあるし…こう、全身にかぶせられる布で…」

「イルカじゃないか?この男」

 紅の言葉に重なって老師の問いが下から覗き込んだ。

「知ってるの?」と問い返せば、また老師は紅の言葉には応えずに「待ってろ」とだけ言い残し、玄関の奥へと姿を消した。

 とってつけたような軒下、灰色の雨音を背景に、大の男を背負った若い女を残して。

「…………」

 しばらくして、奥の方でガサガサと何やら物音がする。

「いまどき珍しい、優しい男だ」

 と良いながら、色褪せかけたうちかけを持って再び現れた。

 何の話かと思いきや、先ほどの紅の問いに対する答え。

 昔の女房の着物だ、と言い訳するように、老師は女物のうちかけを、イルカごと紅の背にかけてやる。絣細工が施された長いうちかけは、イルカの体を包み込んだ。

「どうも」

「たまに、『馬鹿』がつくほどな」

「……」

「じゃあな」

 とだけ言い残し、老師は静かに扉を閉めた。

 軋んだ硝子の音。

 強さを増した雨音。

 全ての音が、灰色世界の中に溶かされていった。

「……帰りましょうか」

 再び紅は雨の中に歩を踏み出した。









 イルカの家まで、できるだけ人目を避けた。

 とはいえ、濡れ鼠のまま何かを背負って駆けて行く女の姿に、いくつかの奇異な視線が集まる。いっこうに気にせず、雨と視線を振り払うようにして紅は走った。

 背中に背負った男の体温が、まったくと言って良いほど感じられない。

 冷え切った体からは、小さな息遣いしか感じられない。まるで、

 記憶をたどり、ようやく到着したイルカ宅は、静かなたたずまいの中にあった。当然ながら無人の家宅から、漏れてくる明かりは無く。

「……鍵…」

 どうするか一瞬まよって、紅はふと、郵便受けの下に置かれた足元の植木鉢に気がついた。まさかね、と苦笑して、イルカを背負ったまま腰をかがめて手を伸ばす。

 鉢をわずかに傾けると、そこに銀色が覗いた。

「……泥棒に入られるわよ」

 恐らく、ナルトのためだろう。

 植木鉢の下には、合い鍵が置いてあった。

 もはやこれでは、「隠す」とは言いがたい。紅は無遠慮にそれを拾うと、暗がりの中手探りで鍵穴に差し込んだ。カチリと小気味良い音がして扉が開き、室内の暗闇が二人を招き入れる。

「お邪魔しま~す」

 小声で言いながら紅は土間で靴を脱いだ。

 湿って冷えた暗い空気が漂う。

 足で扉を閉めると、外界の音が遮断され、雨音が遠ざかる。文字通り、「しとしと」とした水が土に吸い込まれて行く音だけが静かに聞こえてくる。

「……明かり明かり…」

 手探りで壁を撫でて明かりを探す。

 指先が突起を探り当てると、玄関の明かりがほのかに点った。薄ぼんやりと、廊下の先が映る。

 土間は、二人の体から滴り落ちる雨水で、小さな水溜りが出来ていた。

 濡れた裸足で廊下に上がる。

 短い廊下には、部屋へと続く二つの扉があった。恐らく手前は居間だろうと見当をつけ、奥の扉の前に来た。うまく片手でイルカの体を支えて、空いた手で扉を空ける。引き戸が開ききった向こうには、広々とした部屋だった。暗闇の中に、寝台が見える。

「……」

 このまま寝台に乗せるわけにもいかず、とりあえずイルカの体を寝台に背中を預ける形で床に座らせた。羽織らせていたうちかけで、体全体の雫を拭い取る。

 部屋の明かりは落としたまま。

 思いのほか、雨の外気が明るく思う。

 見え隠れする男の傷だらけの顔を気にしながら、紅は濡れた体を拭く。

「……ああ…そうか」

 しばらくして、むしろ濡れたままの自分が、床とイルカを濡らしている事に気付く。うちかけをイルカに羽織らせ、一旦その場に立ち上がった。勢いに任せて、雫がぽつりと落ちる。窓に薄ぼんやりと映る自分を見た。硝子の向こうは、ただ灰色の世界。近所の軒は薄闇と雨に掠れて影しか見えない。人通りも、無かった。

 いっそ面倒だと、紅はその場で衣服を脱いだ。部屋の隅に置かれた背もたれ付きの椅子にかける。

 どうせ誰も見ていない。

 下着のみの裸体同然の姿でイルカの傍らに再び膝を折るが、目を覚ます気配も無い。逆に、ここまで来ても意識を取り戻さない事に焦燥さえ覚える。

「湿り取りは…っと」

 すぐに我に返ると紅は手当ての続きに入った。洗面所から布を引っ張り出してイルカの体を拭い、大きめの布を寝台に敷いた。イルカの額当てを外して上半身の服を脱がせ、寝台に寝かせる。

「……」

 あらわになった上半身の傷と痣の数々に、紅は息を呑んだ。寝台の枕元の小さな明かりを手探りで点灯した。鬼火のような小さな玉灯が浮かぶ。

「……生傷だらけじゃない…」

 まるで野戦の衛生班だ。

 任務を請け負っているわけでもあるまいし、何故専属教師のイルカが…。

 所々変色したイルカの体に、静かに指を這わす。新しい傷から、古い痣まで、その体には呪印にも似た痕がつけられている。傷に触れているうち、イルカの体温が上がっているのに気が付く。

 寒さと怪我があいまって、熱を出したのだろう。

 まずは手当てを、と思い立ち上がりかけて、紅はふと足を止めた。

「そういえば……」

 もう一度、イルカの傷を見下ろす。

「服を着ていては見えないところにばかり傷がついてる………?」

 自然と、眉間に皺が寄る。

 徐々に呼吸が乱れてくるイルカの面持ちは、血の気が無かった。それでも、熱による脂汗が頬や額ににじみ始めている。

 良くない兆候だ。

「……勝手に色々借りるわよ」

 半裸のままズカズカと洗面所へと足を踏み入れる。見当をつけた戸棚を開けて布を引っ張り出す。次に寝室を歩き回って薬箱を探した。適当に薬瓶を掴んでまたイルカの元に戻る。

 続いてまた洗面所に戻り、洗面器を二つ引っ張り出す。一つにはぬるま湯を張り、一つには冷水を張る。

 ちなみに、二つある洗面器のうちの一つは、明かに子供用と思われる柄が描かれていた。

 冷たく濡れた布をイルカの顔上半分に乗せ、次にぬるま湯に濡らした布を絞って体についた血汚と泥を拭き始めた。

 今日新たにつけられたであろう傷が、浮かび上がってくる。

 首筋近くに大きな裂傷が一つ。

 わき腹付近に内出血痕あと、刃を避けたとみられる裂傷が数個。

 両腕に、刻まれたような傷が数個。

「……」

 知らぬうち、紅は唇を固く噛んでいた自分に気付く。

「っう……」

「……イルカ先生?」

 傷に触れたと同時に、イルカの口から苦痛の声が漏れ出た。体中が、徐々に汗ばんでくるのが分かる。イルカの肌にふれる紅の掌が、汗で濡れる。

 発熱する事で傷口が再出血する恐れがあった。

 紅の手は再び、忙しなく動き始める。

 傷口を拭き、止血の為に傷口付近を固く縛って固定する。それからまた傷口を洗い、薬を塗る。

 ずいぶんな荒療治だと、自分でも思う。

 だが、時間がなかった。

 

「……」

 最も大きい、わき腹付近の傷に、紅の手が伸びた。

 わずかに触れただけで、イルカの体は過剰な反応をみせる。無意識に体が、痛みに対して拒絶を示している。

「ぅ……っ」

 イルカの目元と額を被っていた布が、はらりと落ちた。苦痛の面持ちから目を逸らしたくて、また濡らした布でイルカの目元を被った。イルカの口元が、苦しさに空気を求めてあえいでいる。

 止血のために、イルカの体に布を回す。きつくそれを縛る前に、紅は自分の口をイルカの耳元に寄せた。

 静かに告げる。



「いい?我慢なさいね……」



「………」

 応えるように、イルカの息が数度強く吐き出された気がした。

 次の瞬間には、紅はその細腕にあらん力をこめて、傷口付近の布を縛り付けた。

「うっ……ぁっ」

 歯を食いしばり痛みに耐えるイルカの声が漏れた。無意識なのだろうが、まるで紅の言葉にしたがって痛みに耐えているように、両手は寝台の敷布を掴み、こらえている。

「もう…少し…」

 傷口を汚す血を全て出しきり、化膿を抑える為の止血方法。縛り付ける布地があっというまに赤に染まった。

 その広がりが止まる頃を見計らい、一旦縛り付ける。しばらくこうして血を止めないと、薬を塗ることは出来ない。

 縛り上げた布から手を離して、紅は自らの額を濡らす汗を腕でぬぐった。

「っは……は……」

 寝台の上で、イルカの胸元が小さく上下していた。呼吸は小さいが、小刻みに荒い。痛みが徐々に通りすぎるのを待っているかのように。

「……」

 熱を持った傷は、布地の上からでもはっきりと分かる。そっと手を添えてみれば、熱と共に粘り気をもった血液が指先に付着した。

 と、

「……!」

 手を添える紅の手に、イルカの手が添えられた。

「気がついた!?」

 つい声を高くしてイルカを呼ぶが、返事は無い。

 まだ意識は無い。

 だが、その手は確実に、意思をもって紅の手に触れていた。

「……イルカせ……」

 名前を呼んだ時、またその手が強く紅の手を握った。

 すがるように。

 まだ荒い息の下で、イルカの口元が何か言葉を発しようとしているように喘ぐのが見える。



「………あさん……」



「え………?」

 耳を疑って、紅は身を固くする。

 熱を持った、まだ血で汚れたイルカの指先が、またすがるように紅の手を強く握る。



 母さん………



 確かにその声は、

 そう言って紅を呼んでいた。






何考えてるかわからない女

冷たい女

可愛くない女





 そんな風に言われた事はあっても、





―夕日先生?ああ、知ってるぞー。凄い美人で、優しい先生だよな



 

 そんな風に言われたのは初めてだったから……




「え……」

 イルカの口から数度もれたそのうわ言に、紅は耳を疑う。

 何度も、聞き返した。



 遠い記憶の中にいる母親を求める掠れた声はやがて消える。だがすがりつくようなイルカの指は強く紅の手を握ったままだ。

 生の淵にしがみつくように。

「……」

 左手を握られたまま動けずにいる紅は、空いた手で寝台の傍らにおいた洗面器に手を伸ばした。何とか器用に濡れた布を絞る。ほどよく冷たいそれで、汗ばむイルカの額を拭ってやった。

 ほう…っとため息に似た息遣いが聞こえて、気のせいか固く閉じられていたイルカの目元が安堵したように緩んだように見えた。

「……気持ちいい?」

 静かに声をかけながら、また汗を拭う。

 絞りきれなかった水が、汗と一緒にイルカの額から傷のついた鼻筋を通って首を伝った。

 熱の為に苦しそうに上気する体の上で、水滴が蒸発してしまうように冷たい空気の中で僅かに白い湯気を放っている。

 

 そのうち、

 紅の手が震えを感じた。

「?」

 紅の手が震えているのではない。それを握るイルカの手が、かじかむように震えているのだ。

「っ……熱のせい…?」

 熱と悪寒のせいかと思い、症状の悪化に紅は聞こえない舌打ちをした。

 お湯を取り替えようと、立ち上がりかける。

 その時に、イルカの震えが悪寒のせいではないと気づく。



「……かない…で…」



「…………」



 行かないで



 逝かないで





 見えないはずのものが、紅の脳裏に流れ込んで来た。

 燻る血霧、交差する怒号、空を覆う白い影。

「っ…な…に……!?」

 振り払うように頭を振る。

 そこには何も無く、殺風景なイルカの部屋の壁があるだけ。

 下を見れば、寝台に横たわるイルカの体があって、つながれた手が見える。

「………幻…?」

 大きな鼓動をたてた心臓。

 一つ深い息を吐き出す。

 紅の細い指先を覆うイルカの手の甲を見た。つながる二つの手。

 ここから伝わってきた、脳裏に直接流れ込んできた、「感情」だったのかもしれない。

「あなたがこれを私に見せたの……?」

 握られた手から、力が抜け始めた。

 まだ、震えている。

「…イルカ先生……っ?」

 今度は紅が、手を強く握り返す。

 反応が無い事に焦りを覚えた。

 小刻みに震える手は、怯えた小動物のように……



 怯える……?



 紅は自問する。

 イルカの体中に残る痕を見て、自答する。

 そう、彼は怯えているんだと。



「イルカ先生…………イルカ?」

 薄闇の中、苦しい吐息と共にうっすらと、イルカの両目が開かれた。

 手を握ったまま紅が上から覗き込んで名を呼ぶ。

 だが、熱に浮かされて潤む両目に光は無く、何も映していないようで空虚の中を泳いでいた。

 手を目の前で振ってみるが、生理的な瞳孔の反応さえ見せない。

「イルカ…っ!」

 叱咤するように、声を上げた。

 空いた手を、イルカの頬を包むように添えた。

「しっかりしなさいよ!」

 軽く、さすってみる。

 小さく開いた唇からは、生理的に吐かれる苦しげな呼吸だけで、瞳も反応を見せる様子もなく。

 じれったい。

 苛立ちが募る。

 唇を噛んで、離して、そしてまたイルカの名前を呼んだ。

「大丈夫だから…もう怖くないから……」

 だから、目を覚まして。

 「夕日先生」と呼んで。

 

 いつもみたいに



 頬に添えさせていた手が、次に額を撫でる。

 水を触っていた為に冷たい紅の掌には、イルカの額が熱く感じる。

 薄い指先の皮膚の表面が、焦げ付くような痛みを感じたのは、胸の内から湧き起こってくるこの感情のせいなのか…。



「怖くないから…」

 白い包帯と、赤い血の滲みと、上気した肌色、そして熱に浮かされて空虚に潤む黒曜の瞳と…。

 何て扇情的なんだろうか。

(こんな所をアイツが見たら……きっと放っておかないわね……)

 銀髪のドぐされ同僚の上忍を思い起こして紅は苦笑する。

 無意識に、怯えのために震え、安堵を求めている。乞うている。



「かわいそうに………」



 紅は自らの唇から漏れたそれに驚動した。



 例えば自分の足元にうずくまり命乞いをする敵の忍び。何の感慨もなく踏み潰すようにして息の根を止めた。

「あ~あ、カワイソウ」

 同僚のくの一が、となりで冷やかすようにして笑った。

-カワイソウニ

 それは愚かな弱者にのみ向けられる言葉だと、ずっと思っていた。



 これほどに、愛しい感情をあらわす言葉だと、思ってもみなかった。



「………」

 僅かに開いていたイルカの両眼が緩慢に閉じられてゆく。

 目じりに溜まっていた涙が重力に負けて零れ行き、白い枕に跡をつけた。

 涙の行方を見守って紅は、薬品くさい包帯が不器用ながらも丁寧に巻かれたイルカの胸元に、自らの頬を寄せた。呼吸で上下する胸の下から、確かに心の臓器が鼓動音を発して機能している。

「大丈夫……怖くないから…」

 気がつけば、握るイルカの手から震えは消えている。

 

 いつしか紅も、薬品と血の臭いが残る包帯の上で、眼を閉じていた。

 空いた手で掛け布を手繰り寄せ、自分の肩ごとイルカの体を包む。



 そしてそのまま裸の体を、寝台とイルカに預けて、眠りに落ちる。





 朝陽ば窓から差し込むまで、その温もりがやってくるまで、

 二人分の体温を分け合いながら眠る。



 夢の中で、何度もイルカの名を呼んだ。

 









「なーんて……。語っちゃったかしら」

 それまで切なげに細められていた黒い両眼が、ふと悪戯をした子供のごとく丸くなった。それを機にカカシは長く、深い息を静かに吐いた。

「だってさー、もうカワイーのよそれが」

 いつもしているように、紅は女特有のかしましい口調で笑っている。

 だがその両目は、医療院の寝台の上で死んだように眠るイルカから離れずに、そして穏やかな光を宿したままだ。

 たった一度、茶化す素振りでカカシを見やったが、すぐにそれは背けられる。

「物凄いヤセ我慢ばっかりしちゃってさ。そのくせ、『母さん』だなんて、キャー!もうどうしましょう」

 口調は笑っているが、あくまでも紅の瞳の中に宿る色は、笑ったソレではない。

 彼女なりの、照れ隠しなのだろうと、カカシは思う。

「ずっと一人で耐えてきたのよね。友達は多そうだけど、でもそれは彼が与えるモノに皆が甘えて寄りかかっているのであって、本当に彼を助けられる『トモダチ』なんて一人もいなかったんだわ……」

 そこで紅の視線が再びカカシを向いた。

 あんただってそうよ、と口調が低く厳しいものに戻る。

「私だってそうだった…のかも」

「え…?」

 

 優しい人、だなんて言われたのは

 初めてだったから。



「好きなんでしょう?」

 自分の想いを後ろ手に隠して、カカシに問うた。

 存外に素直で、彼は首を小さく縦に振る。同時に、首筋にくすぐったさを感じて紅は小さな苦笑を漏らした。

「でも、中途半端な奴に、うちの子をくれてやる訳にはいかな~いのよ」

 カカシの口調を真似して、再び紅の声調に茶化した色が表れる。

 呆けたように眼を丸くするカカシに向かって、指を立てた。

「何だ、おまえが姑か」

 肩の力がようやく抜けたカカシの苦笑。

 誇らしげに、自慢するように、紅の唇端が子悪魔的に上がるのを見たからだ。

「そうよ。何たって私は「母さん」だものね。少なくともあの時は、本当に何がなんでも守ってあげようと、思ってたし…」

 似合わないわよね。

 また、苦笑した。

 わずかに開いた窓から風が通り過ぎてゆく。

 白い絣の窓幕が揺れて波を描いた。

「ここは素直に、「お嬢さんを下さい」と頭を下げるのね、カカシ」

 扉近くに身を凭れかけていた彌岬が笑う。

 えー?と眉を困ったように下げたカカシが振り返ると、彌岬は意地悪な笑みを浮かべて目を細め返した。

 手ごわい姑二人に挟まれた形でカカシは諦めに似た深いため息をつく他なかった。





 部屋を出て行こうとする彌岬が、敷居を跨いで最後にカカシを振り返った。

「どうするの?目が醒めるまでここにいる?」

「…」

 少し迷って、カカシは振り向く。

「……いや、帰るよ」

「私も帰るわ」

 寝台脇の椅子から腰を上げて紅も扉の方へと歩を進めた。

 きっとこの人は、こうして弱っている所を見られたくないであろうから。

「それに、卑怯だしね。こういう状況を俺が利用しているみたいで…」

 そう、カカシは言う。

 カカシの脇を通り過ぎて紅は鈴が鳴るように笑った。

「そうそう。自分から相談してくれるようになるまで、ま、せいぜい頑張るのね~」

「るさい、魔女め」

「なんとでもお言いなさいな」

 女二人が笑い声を上げながら、扉の向こうへと消えていった。

 豪快な笑い声が廊下の向こうへと遠ざかってゆく。

 悔しいが、きっとあの二人にはまだ到底敵わないのだろう。

 どこかでそう悟っているカカシは肩でため息をした。



 静かになった室内。

 窓から侵入する風が冷たくなってきている。

 カカシは踵を返して窓に歩み寄った。静かに窓を閉め、差し込む西日を避けて絣の窓幕を一枚引いた。

 室内が、薄橙色に包まれる。

 まるで日暮。

「…………」

 カカシは寝台に歩み寄る。

 腰を屈めて、イルカを覗き込んだ。

 寝息は規則正しく、静かで穏やかだった。

 包帯や傷跡は痛々しいが、もう大丈夫だろうと安堵できた。

 きっと三日後くらいにはいつもどおりに教鞭を振るい、受付で笑っているのだろう。

 うずく傷を隠しながら。



 恐る恐る、手を伸ばしてイルカの額に触れた。

 目覚める気配は無い。

 子供にするようにして数度撫でてみる。

 イルカの閉じられた目端がくすぐったそうに僅かに動いた。

 びくりとカカシの指先が額から離される。

 壊れ物を触っている気分でカカシは手を引っ込めた。



「甘えてばかりですみませんでした…、イルカ先生」

 邪気の無い寝顔のイルカに、語りかける。聞いていないであろうが、気にしない。

 むしろ、聞いていては困る。こんな恥ずかしい台詞は。

「トモダチ顔していい気になってましたけど、俺はそれ以下でしたね。貴方がそこに存在するだけで嬉しい、だなんて……身勝手でした」

 らしくない台詞の連続で、自然と頬が上気してくるのが分かった。

 サスケやアスマあたりに聞かれでもしたら、何を言われるか分かったものではない。

 でも、

 本心。本気だった。

 自分一人で照れながら後頭部をガリガリと掻き毟った。

「でもやっぱり俺は、イルカ先生が好きです」



 好きです。



 もう一度、繰り返した。





「だから…」

 雲がかかったのか、急に西日が影をよぎらせて室内が暗くなった。



 カカシの両手に、強く拳が握られる。



 強い風で窓が揺れて音を立てる。





「俺は貴方をこんな風にした奴らを許さないでしょう………」



 風に押されて雲の流れが速い。

 神経質な音をたてた硝子の音はやがて止み、

 雲が晴れて再び西日が室内を穏やかな色に包み始めた。



 カカシはイルカから踵を返して扉に手をかけた。

 



 快気祝いしましょうね





 のんびりとした口調でそう言い残して、

 静かに扉が閉められた。






終わり
2005.10.25.Tue/14:05
  血義吏:表編 


血儀吏<表編>



零・染始



「ちと、物知らずだったな………」

 カカシは、目の前に追い詰めた標的に、低く警告した。

 深森の奥。

岩壁際に追い詰められたまだ少年の忍びは、目の前にまで追い詰めてきた上忍の男に、ただ絶望に似た色の瞳を向けた。

「たかが下忍相手に……まさか上忍が出てくるとは思わなかったんだろう…………?木の葉隠れの下忍、麻繰ツバメ君……」

 指先に挟んだ任務依頼書をはためかせ、カカシはくつくつと笑った。



 任務依頼書には、

 追忍任務依頼書 との文字。



「里に何の不満があったか知らないが、多少、気が短すぎたようだな」

 懐からくないを抜き出し、カカシはそれを前方に突き出した。

 最後の警告だと言わんばかりに。

「選べ」

「……」

「ここで死ぬか、里で裁判を受けるか…………」

「………」

 ツバメは唇を噛んだ。

 判っている。

 抜け忍は重罪。

 それでなくても、

 自分は里の情報を他国に漏らした、国賊。



 死はどちらにしろ、

 免れない。



 それならばいっそ、

 

 戦って死ぬか……

「………どっちも嫌だ」

 腰に差したくないを、ツバメも引き出す。

 左右に一本ずつ。それを顔の前で構えた。

「やめとけ」

 無感慨に、カカシは即答する。

「俺は歯向かう「敵」には容赦無い。骨の髄まで引きずり出し、殺せと懇願しても、願いを聞き届けてやる気は無い」

「……」

 「絶対」を突きつけられ、再びツバメは沈黙。

「お前の事は、とある所から聞き及んでいる」

「?」

 突然のカカシの言葉に、ツバメは当惑気味に目を見開いた。

 当のカカシは、任務依頼書をバタバタと翻しながら淡々と言葉を続ける。



 決定的な言葉を。



「とある中忍センセイからな……」

「!」



 ツバメの双眸に、追憶に似た色が浮かんだ。

 くないを握る手が震える。



 カカシは再び、

 警告を与えた。



「さあ、選べ」



 せめて、

 泣いて、骨を抱いて埋めてくれる人のもとへ、還れ





「……………」



 見上げれば、

 色づきはじめた紅月。



紅月



 罪人の血を求め

 天がその赤い舌をなめずるのだ

 

 闇夜さえも、どす黒く変色した血の色に観得るのは

 霧のように漂う死の香りが

 その場にいる全ての生ける者を狂わせるからなのか



 でも

 そんな中で



 薄れ掛けた時間の記憶

 その中で

 心を捉えて話さなかった、あの影



 全てが赤い その中で

 唯一無垢の白い影



 闇夜に溶ける長い黒髪の



 幼心にも分かった、その儚美さ



 美しい、女性(ひと)







壱・紅月





「ああ、また来るんですか……」

 火影邸にて、任務報告に訪れていたカカシは、まるで噂話を聞き流すかのようにしておざなりに頷いた。

 里全体が見渡せる硝子張りの窓の前で、両手を後ろで組み、火影は頷く。

 その口元には、くゆる白煙の煙管。香ばしい香草の香りが微かに漂う。銘柄を変えたか?とカカシは覆面の下で二回、軽く鼻息を吸った。

 窓の外。ほぼ沈みかけた太陽と入れ違いに、空高くに霞んで現れたのは月。

 その色が、色づき始めた紅葉の如く、紅く赤く、染み付き始めていた。





 紅月の送り祭が近づいているのだ。





「で、三代目…」

 特別報酬の内容が書かれた巻物を懐に仕舞う。後は退出するのみだが、そこにある火影の面持ちに浮かぶ色に憂いを感じ取って、カカシはすぐに踵を返す事を躊躇った。

「なんじゃ」

 振り返らず、いつもの平たい調子で応える火影。

「今回は、どれくらい…」

「七名ほど」

「…割と多いんですね」

「美袋の国とのいざこざで、しばし騒がしかったからのう……」

「成る程」

 手毬を投げ合うように言葉が行き交う。

 当り障りの無い質問の後、少し間を挟んでカカシは最後に問うた。



「『例の役目』は誰だか、決まったんですか?」



「ああ」

「…そうですか」

 思わぬ即答。次に続ける言葉を用意していなかった為、単調な返事しか出来なかった。「何年振りでしょう。紅月の充月夜なんて……」

 火影より一歩背後に歩み寄り、カカシは硝子窓の向こうに広がる空と、対峙する。

「しばらく振りじゃのう…二十年ぶり…だな」

 紅に染まりかけた月は、今はまだ桃色ともいえるなんとも初心な色合いで空に浮かんでいた。弓なりの月。それが完全に満ちるとき、おそらくあの桃色は業火にも似た深紅に染まるであろう。

 数年に一度、又は十数年に一度の、紅宵。

 時には数ヶ月に一度、現る時もあるが、今回はここ二十年ばかり振りだ。



 紅月の充月夜。

 「送り祭」と呼ばれる、ある儀が、木の葉隠れ里で行われる。

 



「送り祭……誰がつけたか知らねぇが…陰険な名前を付けやがって……」

 上忍達が憩いの場として集う、アカデミー裏の遺跡広場。

 石柱の一つに腰掛け、咥え煙草を吹かすアスマが、苦虫を噛み潰す。

 その傍にそびえる大樹の幹にもたれかかり、無言でカカシが頷いた。

「あら…じゃあアンタなら何て詩的な名前を付けるのかしら?」

 横たわる石柱に跨る紅は、先程からくないに鑢をかけていた。その手を止めず、相変わらずの低く深い声で呟く。

「けっ…」とアスマは煙草を吐き捨て、新しい一本を咥える。指先をパチリと鳴らすと、煙草の葉が発火した。

「詩的も何もあるか。まんまで良いんだよ、そのまんまで」

 放課の時間も終わり、アカデミーの建物の向こうで夕日が沈み始めていた。それと入れ違いに現れる、染まりかけた弓月。その光はまだ弱いが、いずれ穴を開けたように空に穿たれる満月は、強い赤色に里を照らすだろう。夕日も朝焼けも、霞むほどに。

 アスマの言葉に、「それも趣向的で素敵ね…」と紅は喉の奥で笑った。



 やすりを動かす手を止めて、紅は空を見上げる。

 その横顔が、逢魔ヶ刻独特の空色に照らされて、背中に悪寒が通り抜けるほど、美しかった。



「やめろよ」

 カカシが短く戒める。

「あら、珍しく気弱な事を言うのね」

「悪趣味だ」

「まあね」

 別段気にする様子もなく、紅は再びくないに視線を落としてやすりを動かし始めた。

 ざりざりと、砂がこすれあう音だけが、沈黙が流れる三人の間に脈打つ。

「カカシ、お前は、ガキどもを「祭」に連れて行く気か?」

 手にした煙草の袋を弄びながら、アスマが問う。

「当然だ」

 カカシは即答。声調に迷いも聞こえない。

「あいつらは、戦いの血をもう知っている。だけど、狂気の血を、まだ知らない」

「カッコイイ~…」

 三文芝居に拍手を送るように、紅はおざなりな拍手。

 横目で、カカシはそれを嗜める。だが至って悠悠とした態度で、紅は静かに笑んだ。

「うちの子達も連れてくるつもりよ。勿論…どこまで耐えられるか、試すために……ね」

 くないについた砂を落とし、ふっと一吹き。鋭い光を取り戻した黒い刃を、いとおしそうに指先で撫でて、懐に一本ずつ仕舞っていく。

 それに…と続く。



「それに、あんたの戦績の結晶も、桧舞台に上がる事になるのかしら……?」

「…………」



 アスマが、ちらりと視線を向けたのが、カカシにも判った。

「ほら、抜け忍のアノ子………」

「やめろっ…胸糞悪い…」

 語気を荒げるカカシに、紅は尚も喉の奥を鳴らして小さく笑う。

 鞠を転がすような、鈴を鳴らすような。

「私を狂っていると思う?」

 身を乗り出すように背を伸ばす紅。

 その姿は、しなやかな猫科の獣に似ている。



「狂ってない忍などいない」



 一呼吸の後、カカシは静かに低く呟いた。







弐・中忍



 任務報告書を提出するために、カカシはアカデミーに来ていた。

 だが、受付にいる筈の人影が、今日はなかった。



 イルカという、中忍。



 ナルトを通して互いに名と顔を認識しあう程度の知り合いだったが、

「いないのか」

 イルカが受付業務を手伝うようになってからは頻繁に顔を合わせるようになった。

 毎回の任務報告書の提出の度に、「お疲れ様です」と誠実的な労いの言葉をくれる。ここに戻ると、生きて帰った心地がした。

 だが流石に今回は、イルカがこの場にいない事がありがたかった。

 先日も中忍試験絡みで喧嘩したことに加え、今度は送り祭を見学させに行くなど、言語道断と、拳の一つでも振るってきそうだったからだ。

(どうもあの人を怒らせるのは心苦しい……)

 と報告書を適当な受付に提出する。

 ふとその隣の受付机を見れば、椅子の上に鞄が置かれ、机の上にはまだ書類が広がっていた。先程まで人がいたような気配。

(もしかしていたのか…?)

 なら鉢合わせしない内に帰るが無難だな…とカカシは、書類に目を落とす受付の男を見やった。ちょうど、最後の判が押されるところ。

 と同時に、



 ガラリ



 とすぐ背後から扉が開く音。

 判を手にした受付掛の男が「おや」と顔を上げた。

「イルカ先生、遅かったじゃないですか」

「……」

 肩越しに振り返ると、黒髪が最初に視界に入ってきた。

「………すみません……」

 沈んだ声調で、中忍教師は振り返った。

 カカシと視線がかち合う。

「どうも」

 カカシはそう一言、頷くだけの会釈。

 いつもならば、どんなおざなりの挨拶に対しても誠実に生真面目に応えるイルカ。

 だが、

「…………」

 反応を示す事なく、イルカはカカシの傍を通り抜けて行った。

 まるで生きている気配が全くしない、消沈様…とでも表現しようか。

 同僚の男が、かける言葉を選ぼうと迷ううち、イルカは椅子の上から鞄を拾うと踵を返してまた扉に向かった。そして

「すみません、早退します」

 と一言残して出て行った。

 最後に、カカシとは視線を合わせなかった。

「………?」

 判が押された報告書の写しを貰うと、カカシはイルカの後を追った。

 長い廊下の先、小さくなっていくイルカの背中がある。

 足音を立てず、気配を出さず、カカシはイルカのすぐ背後に移動した。俯いたイルカの首筋が、弱弱しく細く感じた。

「先生?」

 何気なく、肩に掌を添える。

「っ!」

 大袈裟にその肩が跳ね上がった。

 カカシの手を振り払うと、イルカは何も言わず、振り返らずに駆け出した。

「ちょっ…先生っ!」

 カカシは咄嗟に追いかけて二の腕を掴んだ。

 また振り払われる。

 また追いかける。今度は後ろから肩を掴むと、振り払われる前に引き寄せて壁にイルカの体を押し付けた。

 衝撃で、大きな音がたった。

 アカデミーへと続く接続廊下。忍びの姿に混ざって、子供の姿もある。音に愕き、子供達は足を竦めた。忍び達は、何が起こったのかと、好奇半分で視線を流す。

「どうしたんですか。らしくもない…」

 腕を突き出すカカシと壁の間で、イルカはあくまでも顔をカカシに向けようとせず、俯く。カカシの左手が押さえ込むイルカの肩が、小刻みに震えていた。

「イ……」

「構わないで下さい」

「……」

 呼びかけた名前を阻止される。

 それを引き金に、イルカの中に溜まっていた言葉が吐き出された。

「俺に一切構わないで下さい。声をかけないで下さい。姿を現さないで下さい!」

 わななくような悲痛な声は、次第に怒声に変わる。

 意味が飲み込めず、カカシはイルカの顔を覗き込む。だが、それをも避けて、イルカはがくりと膝を折る。そのまま、壁に背中を預けたまま床に沈んだ。

「イル…」

「俺の名前を呼ばないで下さいっ!」

 両手で両耳を塞ぎ、膝に顔を沈めてイルカは叫んだ。

 最早懇願を越えた、苦痛の叫びだった。

「………」

 足元に座り込んでしまったイルカを見下ろす形で、カカシは半ば呆然とその震える手と首と肩を見つめていた。覆面の下で、諦めの溜息をつく。

 一歩イルカから下がると、カカシは長い廊下を歩き出した。

 残されたイルカが動く気配は無い。

 廊下を行き過ぎる人間の視線が感じられた。

 それを全て無視して、ひたすらカカシは廊下を突き進んだ。







参・木霊



 早朝から、里中に響き渡る木霊。



 コオォォ……ン

 コオォォ……ン



 木槌で何かを打ち付ける音だ。

 幾度も幾度も、続く。



「何かしらね…アレ」

「あっちの山のてっぺんから聞こえるってばよ」

 早朝。

 任務の為に集合場所に集まっていた七班の三人。

 脈動のように規則正しく打つその音に、首をかしげる。

 当然のように遅刻している上忍を待ちながら。



「やあ諸君、おはよう」

「おっそーーーーい!!」

 

 一連のやり取りの後、カカシを始めとする第七班は任務に出立。

 今日は、山への薬草摘みだ。



 コオォォ……ン



「…ねえ、カカシ先生。あの音……」

 山に到着してからも尚も鳴りつづける音に、流石に不気味さを感じてサクラはカカシに答えを求めた。

「ん?」



 コオォォ……ン



「ああ、あれね」

 規則的に、深く長く響くその音は、寂寥感と荒涼感に満ちている。

 物悲しく、そして恐ろしくもあった。

「そんな事より任務だ任務。ホレ」

 カカシは素気無く答えると、空の袋を三人に手渡した。

 これを一杯にするまでは帰れない。

 三人の顔色が変わった。

 われ先にと山の中に入ると、叢を掻き分けて薬草を探しはじめた。

「結構結構」

 そして一人、満足げな笑みを浮かべ、カカシは腰の巾着から愛読書を取り出すのだ。





 コオォォ……ン



 コオォォ……ン



「まだ鳴ってる………」



 半分ほど一杯になった袋に辟易した溜息を漏らした後、サクラは空を見上げた。

 今朝方から、しきりに空をゆるがす木槌の音。

 山中にいる第七班にも、その音は届いていた。

 薬草摘みも、手が止まったり動いたり。

「ほーら、ちゃっちゃと摘むー」

 と相変わらず木の上で読書に耽る銀髪の上忍の声が、おざなりに飛ぶ。

 黙々と薬草を千切っては摘んでいたサスケは、他に薬草はないかと、草を掻き分けながら奥へ進む。

 その足が、止まった。

「あれ……何だ?」

「?」

 指差す先は、向かいにそびえる小高い丘。

「何だろう」

 サクラとナルトも、サスケが入り行った叢の向こうに駆け寄る。

 深くなるかと思った木々はそこで途切れ、向かいの山々が見渡せる明野となっていた。

「?」

 見ると、足元に広がる丘の頂上に、人が大勢集まっていた。

 手に手に材木を担いだとび職の男達らしき人影が、大勢列を成している。

 カカシほどの背丈もありそうな杭を、巨大木槌で打ちつけていく音が複数、木霊にのって響いてくる。



 コオォォ……ン



 これが、音の正体。

「何を作っているのかしら…」

 杭と材木で次々と、丘の頂上を柵が出来上がっていく。徐々に輪を成すその様子を、上からサクラ達が覗き込んでいる。



(ちっ…)



 その様子に、カカシは舌打ちした。

(『紅月の丘』だ………)

 打ち付けられていく杭が数を増やしていく。

 刑場と物見を隔てる柵が建てられていく。

 そして、

 なにやら穴も掘られ……。

 再び舌打ちをして、カカシは木から降り立った。

「ほれほれ、ちゃっちゃと終わらせろー」

 背後から、本の背表紙で三人の頭をどつく。

「何よー先生も手伝えばいいじゃない」とわめくサクラを押しやる。

「何なに、あれ何だってば」とうるさいナルトを小突く。

「……」と不満そうなサスケに一睨み。



 そして、低く一言。

「祭りの準備だ」



「祭り?お祭り?何の?」

 祭り、という歓楽的な言葉にナルトが目を輝かす。

 一方ではサクラは訝しげに眉を潜める。

「こんな時期に祭りなんてあった?………」

「何の祭りなわけ?」と足元に広がる光景に訝しげな視線を送って観察していた。

 背後でまた、木槌の音が響いた。





 朝陽が上ろうと、

 空は赤い。

 最早朝焼けをも飲み込み、紅一色に里が染まる。





 紅月の宵がせまる…







「何か、気のせいかカカシ先生も変だったような……」

 薬草を探して山中を駆け回り、最早家路につく体力しか残されていない三人は、紅い月が照る下に並んで歩いていた。

真中にサクラ。そしてすぐ隣にナルト。少し離れてサスケ。

「そんな事どうだって良いってばよ~…腹減った~~…」

 情けなく裏返った声でナルトが背を丸めてよたよたと歩く。一方で、さすがのサスケも、目に力が無く、どことなく明後日を向いているように疲れた面持ち。

「はーー」と溜息と共に、サクラは空を見上げた。

紅い。

それは、日々、時間と共に濃さを増していた。

「ねえ、この紅い空……なんでだか知ってる?二人とも」

「?」

 指を天に差すサクラにならって、ナルトを空を仰ぐ。

 遅れて、サスケも。

「本で読んだ事あるの。空が赤いのは、天が血を欲しているから。昔は、人身御供を授ける儀式なんかもあって、それはこういう空の色の時に行われていたのよ」

「ふーん…」

 感心したようにナルトが相槌を打つ。

 そのすぐ後に、サスケが短く問う。

「今は?」

「うーん……さすがに人身御供の儀式なんて聞いたことないけど……でも、何かが起こるんじゃないかって思うのよ。カカシ先生が祭りがあるって言ってたけど…空の色も、日に日に濃くなるし…このまま行ったら、その人身御供の儀式が行われていた『紅月の充月』の日がやって来ちゃうから………紅月は、『狂宵』なんて風にも言われているのよ……」

「げー。もしかしてまだあるんじゃねーってばよ。イケニエとかさー」

 わざとらしく両手で自分の体を抱くと、ナルトはブルブルと震えた。

「祭りってその事なんじゃねーの?」

「まさか」

 と応えるものの、サクラはもう一度空を見上げた。この色を見ていると、それも満更、非現実的とは言えなくも無いのでは…と思案がよぎる。

 あの紅の空は、

 本当に血の色に似ている。



 すれ違う人々。

 アカデミーの仲間。

 街の人々。



 全ての人々の瞳に、

 この紅が映っているのだ……。







四・拒絶



「紅い月かぁ……」



 サスケとサクラと別れ、長い田んぼのあぜ道を一人で歩くナルトの影。

 それも、紅い月に照らされて紅く長く伸びていた。



 天が血を欲している……



 狂宵



「…………」

 右の稲穂の海からは、五月蝿いほどに蟲と蛙が狂い鳴き。

「イルカせんせー……」

 無性に寂しさを覚えて、ナルトは丁字路を九十度に曲がった。

 ここを曲がれば、イルカ宅。

 疲れで体は重いが、逸る気持ちに足が急く。長いあぜ道を通り抜け、通いなれた扉の前に立つ。

 三回叩く。

 返事は無い。

 また三回叩く。

 気配も無い。

「………」

 そして、また…

 と手を上げたところで、

「!先生…?」

 気配を感じた。

 路の向こう。切れた街頭の向こうから、こちらに歩いてくる気配があった。

 暗闇から徐々に現れたのは、ナルトの探し人。

 足元に視線を落として俯いたまま、力なく歩いてくる人影。

 後頭部で結われた黒髪が、薄暗闇でもそれとわかった。

「イルカせんせー。お帰りってば!今日さ、泊めてくんない?」

 大きく両手を振って、イルカを迎える。

 だが、

「…イルカ先生?」

 反応が無い。

 人形のように無機質に、イルカは駆け寄ってきたナルトの脇を通り過ぎると、自宅の扉に手をかけた。機械的に鍵を取り出し、鍵穴に差込む。まるで隣に誰もいないかのように、ナルトに気付く気配を全く見せず。

 街頭が壊れたイルカの自宅前。月明かりの下に照るイルカの横顔。その紅い色が、イルカの瞳を空ろに見せていた。



 紅月は、狂気の色……



「な…何だよ…」

 唇を噛んで、ナルトはイルカに駆け寄る。そして扉を開けようとしたイルカの手首を掴んだ。

「イルカ先生ってばっ!」

「っは……!」

 イルカの体が一度、大きく震えた。

 まるで今、夢から覚めたように大きく目を見開き、イルカは弾かれるようにナルトを振り返った。その口から、名前が零れる。

「な、ナルト………」

 いつからそこに?とでも問い出しそうな顔。

 力なく、イルカの足がふらついた。扉に背を預け、イルカは片手を額に当ててナルトから顔を背ける。

「大丈夫?イルカせん……」

「悪い…ナルト……帰ってくれ…………」

 名を呼ぶナルトを遮り、イルカは搾り出すように吐き出した。

「な、何で…どうしたんだってば…変だよ……先生…………」

「頼む……」

 そっけなく、イルカはナルトの手を振り払う。

 絶望に墜ちた色が、ナルトの双眸を走った。

 口元が戦慄く。

 イルカは片手で顔を隠して背けたまま、一向にナルトを見ようとしない。

 その姿に、ナルトは疼くような痛みを覚えた。

 消えていきそうな…その人。

 紅い夜風が通り過ぎ、無言が漂う。



 それを打ち破ったのは、

「子供にまでそれは無いんじゃないですか?」

 という空から降ってきた言葉。

「?」

 イルカより先に、ナルトが見上げる。

 向かいの軒上に立つ、新たな人影。

 その声はいつも聞き知っていた。

「カカシ先生?」

 ナルトの声に、ようやくイルカも緩慢な動きで顔を上げた。

 そして、またすぐに俯く。

 軒上から音も無く飛び降りると、カカシはナルトの頭に手を置いた。その手で、髪をくしゃくしゃとかき回す。

「ナルト。今日は帰れ」

「でも…」

 と言いかけて、ナルトは口をつぐむ。俯いたままのイルカを一度みやり、そしてカカシを見上げる。無言で頷くカカシ。

「……わかったってば……」

 じゃ、と踵を返し、ナルトの姿が田園のあぜ道へと続く細道へと消えていった。

 その背は、一度も振り返ることが無く。

 それを最後まで見送り、カカシは改めてイルカを振り返る。

 イルカは、扉に背をつけたまま俯いている。

 口を開けかけたカカシを遮り、

 意外にも今度はイルカが最初に沈黙を破った。

「何故ここに……」

 その声は、アカデミーで声を張り上げてばかりのイルカからは想像のつき難いほどに弱い。

「言ったはずです。構うなと……」

「無理な話ですね」

「っつ…」

 肩を掴み、無理やりに正面を向かせる。

 それでも顔を背けるイルカの首を掴んだ。力の加減が行かず、軽くイルカが咳き込む。

「そんな急激に態度を変えられて、挙句、『構うな』なんて…納得がいくと思いますか。俺はともかく、ナルトまで……。ナルトはアナタの生徒では無い、という俺の言葉の所為ですか?」

 語気が少々荒い。

「くっ…」

 強く口を噛み締め、イルカがカカシの眼をにらみ返す。そしてカカシより更に荒い声調で怒鳴り返してきた。

「違います!俺には時間が無いんですっ!!」

 その目は、涙だろうか、紅い月光のしたで潤んでいるように見える。

 首を掴むカカシの手を掴み返し、そして力任せに振り払う。

 結構な力だ。

「何が……」

 とカカシが問い返す言葉を区切る。

 いつの間にか、首筋にくないがあてがわれていた。

「………」

 くないの柄を握るイルカの手が、震える。

 すぐ近くにあるカカシの視線から逃れて、またイルカは俯く。

 消えゆきそうな、懇願が漏れた。



「お願いです………あの紅月が消えるまで…………」

「?」



 見上げると、紅月。





「それまで俺の名を………呼ばないで下さい……」





 それ以上、カカシに何が問えようか。





 ゴオオォォォンン………





「!」

「鐘…」

 無言の空気の中に、突如鳴り響いた鐘の音。

 カカシは空を見上げた。

 低く、這うような鐘の轟き。

(この鐘は………)

 カカシは括目。



 鐘は、ニ度鳴った。



 ちょうど、日付が変わるとき。

紅月まで、あと二日。





「っ…」

 鐘の音に耐えられず、イルカは体を翻すようにして扉の向こうに駆け込んでいった。

「あ…」と止める間もない。

 バタバタと玄関から部屋の奥へ駆け上がる音が遠ざかった。

「……………まさか先生……」

 口元に手をあて、カカシは呟く。

 もう誰もいない扉の前で、扉の向こうに消えていった人物を思案し…。



「………」



 空を見上げる。



 紅月の充月が、迫っていた。

 月の色はいよいよ血の赤に等しく濃い。

 夕暮れさえも月明かりに飲まれ、昼過ぎから空は紅かった。







伍・前祭



 送り祭

  日時:明晩 七ツ刻

  場所:紅月の丘



 集合場所だと指示された街の中心広場に行ってみれば、昨日には無かった巨大な看板が建てられていた。

 七班の三人は、並んで書かれた文字を見上げた。

「ほら、やっぱりお祭りだってばよ」

 とナルト。

 樫の木で作られた、もう古くささくれで傷んだ看板だ。

 所々黒ずんでいる。

 その看板に直接、筆でそう書かれていたのである。

「……送り祭……?知らないわ……」

 小首を傾げるサクラ。その斜め横で、サクラの微妙な面持ちに気付いたサスケが様子を伺っている。

「おお、送り祭か……十何年ぶりになるか?」

「!」

 背後から聞こえてきた会話。

 通りすがった町人の男達だった。

 初老近い二人組みは、会話に追憶の靄をたゆたせる。

「丁度…二十年ってところじゃないか?」

「もうそんなか……」



(二十年ぶりのお祭り……?)

 いよいよ訝しげに思ったサクラは、振り返らずにただ背後の会話に耳を欹る。

「今回の『お役目』は誰だろうな」

「二十年前の『お役目』は…清らかく、美しい、くの一だったっけ」

「そうそう!」と急に声を明るく上げて、男達は笑い出した。

(……『お役目』……?)

「っ…」

 サクラが振り返ると、男達はすでに看板の前から離れ、町並みの向こうに紛れて消えていくところだった。

「…………」



ゴオオォォォンン………



 鐘の音。

 日々、回数を重ねていく鐘。昼夜を問わずに鳴り響く。空を突き抜け、里中に響き渡る。

「まただわ…気持ち悪い鐘………」

 眉を顰めてサクラは空を仰ぐ。

 日に日に紅の濃さを強めていく空。

「…サクラちゃん?」

 すぐ隣から、ナルトの案ずる声。

 そのすぐ後に、



「やあ諸君、おはよう」

「遅い………」

 

 カカシが現れた。

 最早慣例となったカカシとの朝(殆ど昼)の挨拶。



「で?今日は何?」

 拗ねた素振りでふてぶてしく、サクラが問う。

 それにはすぐに答えず、カカシは目の前に立つ看板をしげしげと眺める。

 そして感心したように

「やたらでかい看板だなぁ……」

 と呟いた。

 同じように振り返って看板を見上げ、何気なくついたサクラの言葉。

「二十年ぶりのお祭りだから…じゃないの?」

「……」

 それが僅かにカカシの表情を動かした。

 サスケには、一瞬そう見えた。

 知ってか知らぬか、そうそう、とカカシは思い出したように顔を上げると、

「これ、観に行くからな」

 と看板を指差した。

「へ?」

「明日、六ツ刻。この看板の前で待ち合わせだ」

「……!」

 明日といえば、日曜。

 週末出勤を強いられれば真っ先に愚図を言い出すナルトだが、それは出なかった。

 まだ明るいはずの日中。重いほどの沈黙が、まるで闇夜を運んでくるように冷たかった。

「遅刻するなよ」

 最後にそういい残すと、カカシは「以上。解散」と言い残し、踵を返して歩き去っていった。

 全てが唐突な現状に、ナルトもサスケも、「何なんだ」と眉間に皺をよせている。

「……先生こそ……」

 小さくサクラの声が届いた。

 精一杯の強がりなのだろう。



 だがその声も届いたか、

 カカシの背中は人ごみに紛れて消えてしまっていた。

 

「何なのかしら、一体…祭りの内容くらい説明があったっていいじゃないの…」

 カカシが消えていった方を見据えて、サクラは溜息。

 そういえば、街の様子も今日は活気付いているように思う。

 活気……というより、沸き立つ…ような空気だ。

「……二十年ぶり……かぁ…そっか!」

 名案が閃いたとばかりに、サクラはサスケを振り返った。

「イルカ先生に聞いてみようか。多分知ってるよね」

 

 イルカ先生に



 サクラの口からでたその名前に、ナルトは目元に影を落とした。

 先日、イルカ宅で起こった事が蘇る。

 イルカに、無視された瞬間。

 手を振り払われた瞬間を。

 結局あの後を任せたカカシからは、何の言伝もない。話を聞かせてもくれない。

「イルカ先生…は多分、忙しいんじゃないかなぁ~…」

「何言ってんの。アカデミーに行けば会えるじゃない」

「最近学校にも来てないし、家に行っても会えないんだってばよ…」

「ふーん…」

 苦笑いで下手に汗をかきながら言い逃れをするナルト。

 サクラにも当然見え透いていたが、あえてそれを言及しなかった。



 ゴオオオォォォォ……ン……



 また、鐘が鳴った。





六・祭り



 今宵、



 紅月の充月。





 六ツ刻。



 人のうねり

 人の波

 人のたかり



 この静かな里の中で、一体どこからこれだけの人間が集まったのであろうか。

 箱ごと中身をひっくり返したかのようにごった返す中心街。



 その、看板の前で。

 そこにはサクラの予想に反して、誰よりも先に待っていたカカシの姿があった。

「……珍しい…」

 目を丸めて、サクラが呟く。

 次に到着したサスケも、「……あれ」と小さく言葉を漏らす。

 そして、最後にやってきたナルトも同じく。

「よし、揃ったな」

 三人が到着すると、カカシは腕に抱えていたものを三人の前に広げた。

 それは、黒い外套。

「?」

 三人に一枚ずつ投げ渡す。

「何コレ…マント?」

 サクラがそれを広げてみると、蝙蝠の羽のごとく黒い。

「それを羽織れ」

 カカシは無造作に外套を背中に羽織る。

 全身が、黒ずくめに闇に紛れる。

「えー?」

 桃色と赤が鮮やかな装束を身につけているサクラが、真っ先に唇を尖らせる。

 ナルトは止め紐を止めてくるくるとその場を飛び跳ねる。外套が翻るのを楽しんでいるのだ。サスケは、黙って言われたとおりに外套を装着。それに倣い、サクラも渋々従う。

「行くぞ」

 外套を着けるや否や、カカシは歩き出した。

 その後を、てるてる坊主の三人がついて行く。

「ねえ、こんなの着てさぁ、先生、何のお祭りなわけ?」

 サクラの言葉に、カカシは始終無言。

「……」

 歩を進めるごとに、サクラは眉を顰める。

 カカシが歩いていく先に、同じく黒い街頭を羽織った人影の集群が見えてきたからだ。

「……な…何?」

 集群の向こうに、ちらちらと光るものが見えた。

 鬼火。

 いや、松明の行列。

 道沿いに、まるで道しるべのように長く続く松明。

 その松明に寄って、黒い人影たちも道沿いに列をなしている。

「……?」

 その松明の火をたどっていくと、行き着く先は、小高い丘。

 昨日、山から見下ろした丘だ。

 見ると、今は柵が立てられていた。幾つ物松明の灯りが点り、紅い月光の下でその丘は、幻想的に浮かび上がっていた。

「来たぞ!」

「出てきた」

 どよめきが上がり、サクラが振り返る。

 ナルトとサスケも、カカシの隣に並んでざわめきの出所を探る。

 人と松明で埋め尽くされた沿道。

 その道の真中を、一つの行列が緩慢な速度で進んでくるのが見えた。

「何何何、何が来たんだってば」

 飛び跳ねて懸命にその様子を観ようとするナルト。

 サクラは手近に植樹を見つけると、飛び上る。ナルトもそれに続いた。

「邪魔よアンタ」

「いいじゃんってばよー」

 と枝の上で押し合いへし合う二人。その一本上の枝には、いつの間にかサスケの姿があった。

「おい、見ろ」

 と指をさす。

「え?」

 行列が、ちょうど三人の下を通っていく。

「…何……?アレ…」

 サクラの声が震えた。

 ナルトの首根っこを掴んだまま、動きが止まった。

 

 行列。

 黒装束に、白い頭巾を被せられた人々が、鎖に繋がれて歩いていく。

 打ちひしがれ、首を垂らした人々。

 一人、二人…七人。



 一目で分かった。



 囚人行列。



「……囚人……」



 サクラの呟き。

 それを遮るように、足元からカカシの声がした。

「おい、行くぞ」

 丘の上を指差し、カカシが手招きする。

「え…?」

 悪寒。

 木の上から改めて、足元の光景を眺める。

 黒い外套の人影たちのうねり。興奮のどよめき。



 何を

 何を皆は興奮しているのだろう

 この人たちは一体……?



 割鐘を叩いたような音が、脳内に響き渡る。



「ねえ、これ一体……あの人たちって…」

 枝から飛び降り、カカシの外套を掴む。

「囚人でしょ?あの人たち……どこに行くの?ねえ、これ、何?お祭りって……」

 後ろから、ナルトとサスケもついて来る。

 サクラの言葉は、残り二人の問いを代弁していた。

「……」

 カカシは丘の上を一度指差すと、短く応えた。

「いいから、ついて来い」



 松明に導かれ、人波を掻き分け、四人は丘を目指した。

 途中、同じく黒い外套に身を包んだ紅に出会う。

「あら、奇遇」

「よう」

 その紅の背後で、怯えてあたりを見渡して落ち着かない様子の子供達。

「さっき、アスマ達が上の方に行ったわ」

「そうか」

 どちらが誘うともなく、二組の下忍班は丘を目指して歩き始めた。

 囚人達の動きに合わせて、人波も移動していく。

 

 丘の入り口で、目立つ大きな体格が見えた。

「おう、来たか」

 さすがに煙草は控えている。口元が寂しそうだ。

「先生…」

 とサクラに即されて、カカシは「おう」と振り返る。

 サスケの外套の端を握り締め、サクラが四方八方を見渡して落ち着かない。

 流石のナルトも、飛び跳ねる様子もなく肩をすくめている。

 いくつもの杭が四方を囲み、そしてその場を二つに区切るように横切る柵杭。

 四角に区切られたそこには、一つ、穴が掘られていた。

「………何よ…これじゃまるで……」

 その先の言葉を口にするのが、恐ろしい。

 サクラは唾を飲む。



「来たっ!」

 また大きなざわめき。

 丘の入り口から、七に並んだ人影たちが、現れた。

 じゃらりと重い鎖を引きずる音を伴って。

「はい、ちょっとごめんよ」

「っ…」

 背中を押されてサクラは前方につんのめる。

 同じく黒い外套の男が、大きな看板を建てていた。

「大丈夫?」とナルトが手を伸ばす。それを素直に握り、立ち上がる。膝の泥を掃う前に、目の前に立つ看板の文字が目に入って来た。



 受刑者名一覧 七名



「受……」



 几帳面に並ぶ七の名前。

 いずれもサクラにとっては知らぬ名ばかりだが、それが何を意味するのかは理解出来た。



 サクラの背後から、カカシも同じく看板の文字を見つめる。

 

(キガラ……)

 見知った名を見つける。



 その昔、抜け忍として里から闘争した忍び。

 追い忍は、カカシだった。生け捕りにせよとの任務。里は尋問の必要性があったからだ。

(あれから…ずっと獄中にいたのか………)

 覆面の下でカカシは下唇を噛むが、感慨らしきものはこみ上げてはこなかった。

「……」

 入ってくる行列を振り返る。

 顔半分を白布覆面で隠されていたが、その顔はすぐに判った。

 痩せた横顔がある。

 紅い月光の下、虚ろに落ち窪んだ瞳が、すでに生を放棄しているかに見える。

「……キガラ……」

 一度は、共に任務を請け負った事もある盟友。



「ねえ、ちょっとっ……先生!」

「!」

 サクラの声に、カカシは我に返る。

 囚人の行列を指差し、紅い月光の下でも青い顔だと判るサクラ。

「何だ?」

 サクラの指先を追う。

 行列の中に、頭一つは小さい人物の影が。

「あ、あれ…まだ子供…………?」

 ナルトらよりは年上であろうが、体格、身長から見て青年に手が届きかけた少年…という印象がある。小柄なために、白布の覆面が顔全体を隠してしまっている。

 重い鎖の足枷が苦痛そうだ。

 ついぞ最近、まだ若い忍びが抜け忍となり戦任務先から逃亡したという事件があった。

 まだアカデミーを卒業して間もない、将来を嘱望されていた優秀な忍びであったと聞いた。



 それを捕らえた追い忍が、

 カカシであった。



 裁判が行われたとは聞いたが、

 やはり結果は同じ事……。



(見せしめ………か)



「ねえ、カカシ先生……これってやっぱり………」



 奥歯がかみ合わずに震えるサクラの声。

 両膝がいまにも崩れ折れそうに震えているのが判った。

 懸命に、声を絞り出そうとしている。



 これってやっぱり……公開処刑?



 語尾が消える。



 カカシは黙って、頷いた。



「っ!」

 驚愕にナルトが大口を開けて目を見開く。

 さすがにサスケも、眉間に深い皺を寄せて目を細めた。

「な、何でこんな…私たちまでこんな所で……っだって、お祭りって行ったじゃ……」

 柵杭の中に次々と連行されて行く囚人達から目を逸らし、サクラはカカシにすがる。



送り祭



「送り…祭……」



 すなわち

 野辺送り



「紅月の充月は、天が血を欲しているから…。お前なら知っていただろう?」

 低く、静かに、だが優しく、カカシが応える。

「あれは、本で読んだ御伽噺同然の…っ」

 目の端に涙をためて、サクラはカカシの外套を力の限りに握り締めた。

 背後では、人のうねりが熱となって空気を濁しているのが伝わる。

 柵杭の門が閉められ、いよいよ囚人のうちの一人が、まず跪かれる。

 厳格な男の声が、罪人たちの名と罪状を読み上げる。

「…………っ」

 何故に声が群集から上がるのか、サクラには理解が出来なかった。

「こんなの……」

「よく見ておけ」

「…………」

 紅月が、よりいっそうの濃さを増す。

 朧月のような光が、いっそうの強さを増す。



 刻は満ち足れり



 サクラから視線を逸らして刑場に向けて、カカシは静かに、凛と応える。

「あそこにあるのは、戦で敗れた者、裏切り者の行く末だ」

「……………」

「ああなりたくなければ、皮肉だろうが、死に物狂いで戦う事だ」

「…………先生…」



 七人目の名と、罪状が読み上げられた。



 これから、介錯人により、刑が執行されるのだ。





七・介錯人



「介錯人だ……」

 声があがる。

「……もうやだよ………」

 既に顔中を涙でぬらしたサクラが、重い頭をようやく刑場に向けた。



 見ると、柵杭の向こうから、白装束を身に纏った介錯人が現れた。

 脇に鞘に収められた長刀を抱き、そして右手には差紙を握っていた。

 居並ぶ役人らの前で深く一礼し、そして刑場に入る前に一礼。

 一歩一歩、ゆるりとした足取りで、罪人達の前に姿を現わす。



 白袴に白タスキ、そして白鉢巻。

だが、それと相反する黒髪が、紅月の光の下でも、鮮やかだった。



 噂に上っていた介錯人の登場に、

 場が沸く。



「…………っあ!」

 ナルトが声を上げた。



「っな……」

 

 覆面の下で、カカシは逆流する息を飲み込んだ。



「うそ…」

「………」

 遅れて、サクラ。サスケ。







 白に包まれた、イルカがそこにいた。







 黒髪を後頭部の高い位置で結わえ、その結い紐も今日は白い神紙。

 今までに見せた事も無い無機質な表情と白鉢巻が、冷たく、厳しく、凛々しい。



 少しやつれたか、

 紅い月光に照らされて横顔は、それでも白いと感じられた。



 何の感慨も現さない瞳で、黒髪と鼻の傷が特徴の介錯人は、立台の上に差紙を置き、刀の柄に手をかける。



 すらりとそれを引き抜いた。



 また、ざわめき立つ声が重なる。



 白銀の刃が、鋭い光を放つ。

 刃が天を向くように刀を握り、イルカは差紙を手にした。

 まず、それで一度刃を拭う。

 そして、その刃を下に向けた。

 すぐ足元に跪いていた介助人が、桶から柄杓で掬った水を、刀にかける。



 ぴたぴた…

 という音と共に水が地に落ち、吸い込まれていく。



 その一つ一つの動作が、まるで舞いの手動作一つ一つを見ているようで美しい。

 カカシは、無意識によぎったそんな思いに当惑する。



(似ている…………二十年前と……)







 送り祭。

 いわく、公開処刑



 これは見せしめの儀。

 抜け忍、国賊、重罪人、敵国の者など。

 長い間拘留していた里に仇なす者を、紅月の丘で一斉に処刑するのだ。



忍びの里では慣例だ。

 その儀には、

 上忍、中忍、そして下忍にも、罪人達の末路を見届ける権利がある。



 裏切りは許さない。



 忍びとして、

 里に絶対の忠誠を暗黙に誓わせるのだ。



 二十年前。

 まだ幼い、とはいえ既に中忍として名を馳せていたカカシにも、

 その公開処刑を目の当たりにした記憶があった。



 なんてことは無い。

 血は戦でも任務でも、見慣れたものだった。

 命乞いの慟哭も、狂い死にの呻声も。

 そこにあるのは、血と死と狂気。



 ただ違うのは、



 美。



 無垢の純白に身を包んだ、美しい影が、そこにはあった。

 白刃を閃かせ、

 地を這うような狂声を上げる罪人を、その一閃のうちに天に帰さす、



 美しい介錯人。

 火影の占術により選ばれし、その充月の宵にもっとも天に近いとされる聖星を持つ者。

 定かではない、二十年前の記憶。

 長い黒髪が印象的な、凛とした美しさを持つまだ若い女性だった。



 不思議な熱が、胸の内にこみ上げたのを覚えている。

 

 あの美しさは、

 死に行く者へのせめてもの手向け。







 美しい黒髪の介錯人。

 あれは細身の若いくの一であったが、

 何故かその記憶の影とイルカが、重なる。



 呆けていた自分に気付き、カカシは我に帰るために首を一度振った。

「………」



 二人の介助人が、一人目の罪人を背後から押さえつけていた。四角に彫られた穴。その上に、首を差し出す。



 それを上から見下ろすイルカの瞳は、



 無。







「………う、嘘…イルカ先生……」



「イルカ先生が人を殺すなんて…………」



 サクラのしゃくりあげる声。

 ナルトはすでに、出す言葉もなくイルカの一挙一動を食い入るように…というより半ば放心しているように目を見開いて見つめていた。

 サスケは、額と両頬に大量の汗。





 一人目。

 罪状、戦任務における木の葉軍情報の漏洩と渡売。

 

 つまりは、国賊。





 イルカが、刃を両手に持ち替えた。



 ざわめきが消える。



 白刃が空高く上がる。

 

 もう、何も聞こえない。





 嘘だ

 嘘だ

 嘘だ





「カカシ先生っ……!!……やめさせてよぉっ………イルカ先生が…」

「静かに見るんだ」









 あの紅月が沈むまで





 俺の名を呼ばないで下さい







 脳裏に何度も響く、イルカの声。









八・二人目





「次」



 事務的な声に導かれ、二人目が引きずり上げられた。

 腰が抜けたのか、足腰がまったく立たない囚人を、両脇から介助人が支えてやってきた。



「っ…」

 次にサクラが我に返ると、目に飛び込んできたのはその光景だった。

 すでに、



 一人目の首は首桶に仕舞われていた。



「イルカ先生……」



 白装束の襟元に、僅かに返り血を浴びていたイルカがそこにいた。

 変わらぬ無機質な瞳で、刃についた血を介助人による掛け水で洗い流している。

 水を払い落とし、そして差紙で拭う。

 

 腕を握ってくる感触に傍らを見ると、

「ナルト……」

 ナルトがサクラの袖にしがみ付いていた。

 体の平衡感覚を支えきれないようだ。みれば、足元も震えている。

 だが、

 その目はまっすぐに、刑場にあるイルカに向けられていた。

 瞑りたい目を必死に開け、汗に震えている。

「…………一振りだったってばよ………」

「え?」

 搾り出された声に、サクラが耳を傾ける。

「血も全然出なくて…音もなく……落ちたってば…」

「………」

 「何が」とは問えず、サクラは目だけでイルカをみやる。



 何事も無かったかのように。



 それが、もっとも表現に相応しい言葉だろう。

 イルカは片手に刀を握ったままの姿勢で、次の罪人がやってくるのを待っていた。

 その瞳は、じっと覆面に半分隠れた罪人に向けられている。

「ひっ…」

 突き刺さる眼光に我に返ったか、罪人の男が肩を一度大きく揺らした。

 それを引き金に、突如狂ったように叫びだし、その場から逃れようと暴れ出した。

「………」

 姿勢を変えず、イルカはただ、直立不動。

 男は、理解不能の叫びを上げながらも、二人の介助人に引きずられて突き出される。



「……っ!」

 その叫びに耐えられず、サクラは外套の裾で顔を隠し、両耳を手で塞ぐ。カカシは戒めようとはしない。

 男の嬌声と比例して、周囲の沸声も上がる。



 ここは何処なのだろう。



 サクラは自問する。

 ここは、木の葉の隠れ里ではなかったのか。

 いつも平和で



 お人よしのアカデミーの人たち。

 カカシ先生。

 ナルト

 サスケ

 家族

 友達………



 何故ここにいる人々は、人の死に己が血を騒がすのか。



 あの黒髪の介錯人は、なぜ無表情で人の首を落とすのか。



「あんな人知らない……っ……!!」

 あれはイルカ先生じゃないんだ

 そう、サクラは何度も繰り返し呟く。



 ワッ……!



 大きく沸く声。

「!」

 カカシが見守る中、

 大柄なその罪人の男が、介助人を振り切ったのだ。

 無我夢中、とにかくその場から逃れたくて、男は闇雲に走り出した。

 その広い背中のど真ん中、

 介助人の一人が投げたくないが深深と突き刺さる。

「がっ…!」

 短い男の断末魔を待たず、イルカの足が動いた。



 白刃が閃く。



(速っ…)



 次の瞬間には、

 くないを背に突き刺した男の体から、首が刎ねていた。



 首が

 穴ではなく、役人達の足元に転がる。



(速いな…おそらく奴は、痛みなど感じなかっただろうに)

 突然の事に動揺を見せる役員席の面々。

 イルカは刀を手にしたまま、転がる首の元に歩み寄る。

 そして役員席に軽く一礼すると、

 首を拾い上げる。

 慌てて首桶を運んでくる介助人。

 差し出された桶に、

 「何事も無かった」かのように、首を入れた。



 居合の見本を見ていたかのような、一連の動き。

 

 最初に踏み出した一歩から、刀の一振りまで、まったくの無駄がなかった。



「………」



 美しい、とさえ思った自分がいる。



 白い鉢巻が、紅月光の下で翻る瞬間。

 差し込んだ月光に反射した、黒曜石の瞳。

「無」の面に覆われたイルカの面持ちも、能楽的な美が、そこにあった気がした。





「…………」

 傍らを見れば、

 見たくないものを見てしまった…というように目を見開いて震えるサクラがいた。

(刺激が強すぎたか……?)



「せ…先生……」

「……」

 下から、サクラの振るえる声。

「どうしよう…あたし……」

 右手にしがみ付いていたナルトは、いつの間にかその場にへたり込んでおり、サスケは固まったまま立ち尽くしている。

「あたし……さっき、一瞬……」



 綺麗だと、

 思った………

 思ってしまった







九・少年





「………」

 カカシはサクラからナルトに視線を移す。

 まるで月光と血塗られた光景にあてられたように、熱に浮かされた目つきで呆然とするナルトの横顔。

白い頬をしたサスケも、おそらく心境は似ているだろう。



 だが、そんな惚呆に似た面持ちも、次の瞬間には崩れた。



「次」

 という事務的な男の声。



「?」

 同時にナルトとサクラの視線を追えば、

 

 次に控えていたのは、





 まだうら若い少年とも言える、罪人。

 

 名を、

 ツバメといった。



 うなだれていた首を上げ、介錯人である黒髪の中忍に、何かを訴えるように視線を向けていた。その真摯さが、覆面に顔が隠されているとはいえ、窺い知る事が出来た。



 一方のイルカは、

 少年の方に視線を真っ直ぐに向けてはいるが、その瞳に感情が宿っている事は、無い。



「……………イルカ…先生……」

 カカシの呟きが、再び湧き上がった声にかき消される。







 考えたくない答えが浮かび上がる。





 少年は、潔い態度で黙って首を差し出す。



 その頭上で、イルカは黙々と刃に掛け水を掛け、差紙で拭いを入れていた。

 白い覆面と、黒い装束の間からのぞく少年の白いうなじ。

 カカシの位置からも、それがいかにも儚く映った。



 イルカはまるで、そこに刃を振り下ろす事を難とも思っていないように、手際よく手順を薦めていく。

 イルカの動きを待って、介助人が動く。

 最後にもう一度、刃を濡らす掛水を振るい払うと、



 イルカは刀を振り上げた。





 ギリッ…

 という骨が鳴る音。

 自らの手を折らんばかりに強く握り絞められたナルトの掌。

 細かく、痙攣して震える。



先生が……

 イルカ先生が子供を殺すなんてありえない!!



「やめてよーーーーーーーーっ!!」



「っ!!」



 突然のナルトの叫びに、カカシは我に返った。

 その場にいた誰もが瞬時に声の主を振り返る。

 カカシはナルトの襟首を掴んで引き寄せた。

「あっ…!」

 咄嗟に振り返ったサスケの眼に、





「………」



 まるで遅回しで再生された映像のように、



 首が落ちていくのを見た。



「あぁ…っ………」



 のどの奥から逆流する、サクラの沈痛な声。



 それでも、

 イルカの刃が描いた弧は、無駄の無い美しい曲線を描いていた。

 名鍛冶による空をも切り裂く刃は、何の苦も無く次々と首を落とす。

 

「離せってばよーっ!もう止めさせるんだってば!」

 カカシの腕の中で、ナルトがあらん限りの力で暴れる。

 両腕を羽交い絞めにし、カカシは鋭く一喝した。

「あれは木の葉の忍びとしての任命なんだっ!」

 火影の占術による天命の決定。

 それは「絶対」を意味していた。

「イルカ先生は、人を殺しちゃいけないんだってば…」

 語尾が裏返り、涙に滲んだ声となって掻き消える。

 カカシが手を離すと、ナルトの体はそのまま地面にへたり込んだ。しりもちをつく。

「あれは、イルカ先生じゃないんだ……」

「………」

 ナルトの口から出た、サクラとまったく同じ言葉。

「イルカ先生…俺がちょっと指切っただけで大騒ぎするんだ………なのに」

 外套の裾が引き裂かれるほどに強く握り締めて、ナルトは体を震わせる。



 カカシは、次の処刑が始まろうとしている刑場に視線を向けたまま、低く応えた。



「それは身勝手というものだ」



「……え…?」

 サクラが食いつくような視線。

「イルカ先生を何だと思ってるんだ。彼は忍びだ。人を殺せば子供だって殺す」

「…………」

「お前らのは、ただの偶像の押し付けだ」

「………………」

 最も口が達者なサクラも、口を半開きにして言葉を吐きかけたまま固まる。



 理解していたはずだった。

 中忍試験を経験した時から。

 

 中忍というものがどういうものか。

 忍びというものがどういうものか。



 ただ、

 それでもやはり、あの黒髪の男は

 血に濡れてはいけないのだ……



「………ごめんなさい…」



 ごめんなさい



 何度も

 何度も



 懇願するような謝罪。





 壊れ物を優しく包み込むように、カカシはサクラの頭に手を添えた。

 そして膝元に抱き寄せる。







 穢れさせる事を決して許せない存在。



 だからこそ、



 三代目は彼を選んだのだろう。

 そう、カカシは思う。







 それは、



 死に行く者へ、せめてもの手向け……

















 紅い月は



 まだその輝きを失わない。







 この宵があけるまで……











拾・終焉







 全てが終わった時、



 イルカはまるで酒にあてられたように、裸刃をたらしたまま、虚ろな瞳で空を仰いだ。



 紅月の充月は、

 色を失いかけていた。



 それとは対照的に、刑場の地には赤々と血の跡。

 

 介助人に促され、血のついた刀を一振り。

 掛け水で清め、差紙で拭う。



 おもむろに鞘を掴むと、

 白銀の輝きを失わない刃を、

 その中に戻した。



 それと同時に、歓声にも似たざわめきが静まり返った。



 全ての遺体が片付けられ、穴が埋められ、首桶が運ばれた。



 イルカは刀を脇に抱くと、役人席にむかって一礼。

 そして、柵杭から外に出る扉の前で、再び振り返って一礼。出て一礼。



 その瞬間をもって、介錯人としての責務は、終わった。





 同時に、







 送り祭が終わる。















 刀を介助人に渡すと、イルカの足は火影の元に。

 これも儀礼的なものだ。

 鉢巻を取り、タスキを取り、手と膝をついて火影に頭を垂れる。

 足元に跪くイルカを、

 火影は笠の下から表情の無い瞳で見つめる。



 そして、

 全てを終焉に導く言葉を述べた。





「……大儀だった」



 

「………」



 イルカは、それに無言で会釈を返す。

 そして緩慢とした動作で一つずつ立ち上がると、

 深く火影に一礼。



 そして、踵を返した。



 襟と袖を返り血で濡らした黒髪の介錯人は、手に鉢巻を握り締めたまま、刑場を後にしようと歩を進めた。

 介助人が、着替えの場へイルカを誘導しようと促す。



 だが、



「っあ…」

 

 誰のものとも無い、短い声。



 一歩踏み出したはずのイルカの体が、体重を支えられずにその場で崩れ落ちた。



「危な……」

 横から咄嗟に伸びてきた、誰かの腕の中に沈みこむ。

 火影の口から、その腕の持ち主の名が呟かれた。

「カカシ……」



「……………」



 中腰で膝をつき、イルカの白装束の上半身を抱きかかえたカカシ。

 上から見下ろす火影の視線に目をあわそうとせず、ただイルカの顔を見つめていた。



 青白い、顔。



 未だ紅の色を残す月の下でも、それがはっきりと分かった。



 呼吸が浅く、脈も小さい。

 生気が、無かった。

 







「病院へ……」

 白袴の介助人が、カカシの元に駆け寄る。

 それを腕で制した。

 視線を合わせることなく、短く言い放った。

「もういい。触るな」

「……」

 イルカの肩を抱き寄せる。

 つん、と襟を濡らす血の臭いがした。



 火影は、何も言おうとはしない。

 しばしカカシの腕の中に力無く横たわるイルカに目を向け、

 溜息に似た深く長い息を吐いたのみ。



 離れたところからナルトのしゃくりあげる声を聞いたが





 でもそれを慰める声は、





 今は無かった。




<表編>



 終了
2005.10.25.Tue/14:08
   



 

 教師になるんだ。

 そう言って、自分の元を去っていった彼。

 その彼の名前を再び耳にしたのは、

 予想外にも火影様の口からだった。

 

 「イルカには・・・無理なんじゃ」

 

 ずっと遠方での任務を中心に請け負ってきた俺は、数年ぶりに里に戻ってきたと同時に、火影からじきじきに呼びだしを受けた。

 アカデミーで、新人下忍の指導にあたってほしいという。

 その中には、あの狐を腹に宿した子供がいる。

 その子供の元担任が、

 イルカという名の、昔の同僚だった。

 「お前にあの子を見張らせるのは、ほかにも理由がある」

 煙管の煙をくゆらせて、火影様は笠の下から鋭い視線を俺に向けた。

 「何です?」

 賞味期限がとうに過ぎた牛乳パックをテーブルに置き、俺は火影様を振りかえった。

 「イルカには・・・無理なんじゃ」

 今度は視線を俺からはずして窓の外へ向け、火影様は白い煙をため息とともに吐いた。俺は無言で次の言葉を待つ。

 

 「子供を殺すなど・・・奴にはとうてい出来ん」

 「・・・・・・・」

 

 覚醒。

 封印の解除。

 それはつまり、

 里の壊滅、

 地獄の再来を意味していた。

 

 里の長として起こすべき行動は、

 もうすでに決まっている。

 

 「・・・・それは、存じてます」

 俺の低い声が返った。

 今度は火影様が、無言で窓の外を眺めたまま、俺の言葉を待った。

 「彼とは・・・部隊が一緒でしたから」  

 

 イルカに、子供が殺せるはずがない。

 だが、あの子を育てられるとすれば、

 イルカしかいないだろう・・・。

 そんな残酷な矛盾と決断。

 俺には、その両方が理解する事ができた。

 そう、  

 その黒髪の、顔の中心に一文字の傷をもった、元同僚は、

 そういう人間だった。

 

 たとえ、

 自分の命を落としても・・・だ。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「お花はいかが?」  

 大人の男の膝丈ほどしかない幼い花売り娘が、イルカの元に駆けよってきた。

 ここは都の中心から少し郊外に出たところ。

 繁華とはいえないが、逆に喧騒がなく過ごしやすい、村の風景。

 遠出の任務のさなか、俺やイルカも含む木の葉の忍達が、この街にしばしの休息を求めてやって来ていた。  

 とある数十万石の城主の依頼で、領地を巡るちょっとした戦に、伏兵部隊として参戦していたのだ。

 第一段階の戦場となった影浦ノ原からそう遠くない街。西方面へ退いて行った敵の軍勢を追って来た所、ここに通りかかった、という訳だ。

 「お花はいかが?」

 可憐な仕草で少女が近づいてくる。イルカはふと立ち止まり、振りかえる。

 「放っておけ。キリが無い」

 と、前を歩く俺。

 ここは、あまり豊かとはいえない階級層の人々も多いらしい。先ほどから、こうして何度も、物売りや物乞いにあっている。

 「でも・・・」

 少女に裾を引っ張られ、イルカは立ち止まる。俺も、やれやれという風に振りかえり、肩をすくめた。

 この黒髪の同僚と知り合ってもう何年が経つだろうか・・。

 花売り娘に和やかな笑みを見せる戦友を、三歩下がった場所から眺める。

 お互いに知るところは多いとはいえ、彼の行動にはいつも気をかけずにはいられない。

 膝をついて少女と目線をあわせ、笑顔を向ける大の男。そして同じく可憐に微笑む少女。

 戦場を離れればとたんにこうだ。戦の日々から俺を安穏の日常に引き戻してくれる、唯一の存在。

 「お花はいかが?」

 腕一杯に抱えた花束をイルカの鼻先にかかげ、少女は三度、微笑んだ。

 「そうだな・・・じゃあ、少し貰おうかな」

 イルカが懐に手を伸ばしながら、俺を振りかえる。

 「花なんか買ってどうするんだ?」

 俺は覆面の下でため息をつく。

 目を細めてイルカが、悪戯っぽい笑みを見せた。

 「あんたにやるよ」

 「それはどうも。花ってのは、揚げて食うと美味いらしいからな」

 珍しく冗談を口にした俺に、イルカは一瞬、黒い瞳を見開いたが、すぐにそれを細めてまた、くすぐったそうに笑った。

 俺は「早くしろよ」と視線を反らした。  

 

 「お花は・・・」

 少女の声に、イルカが目線を再び少女に向けた。

 「!」

 

 瞬間・・・  

 

 「いかが?」

 

 「っぐ・・・・・っ!」

 「!?」

 

 くぐもったイルカの声に俺が視線を戻した時には、

 「イルカっ!」

 身体を丸めてその場に倒れこむイルカの姿が、あった。

 「お花はいかが?」

 その傍で、花束を抱えて微笑む少女。

 その花束からしたたるのは、血。

 傍で倒れているイルカの腹部からも、血が筋を描いて地面を伝わっている。  

 「花に武器を隠し持ってやがったか・・っ!」

 俺は抜刀した。  刃先を少女の鼻面に突きつける。

 「お花は・・・」

 だが少女は、臆する様子もなく、血のしたたる花束を今度は俺にかかげて微笑む。

 「いかが?」

 倒れているイルカの身体をまたいで、一歩、一歩、俺の元に・・・。 

 俺は刀を抱えたまま、周囲を一瞬見渡した。

 遠まきに、街の人々が顔色を変えて何事かと騒ぎ始めている。

 傍から見れば俺は、幼い少女に刀を突きつける暴漢といったところか。

 だが、俺の決断は早かった。

 刀を振り上げる。

 

 「お花は」

 「いか・・・・・」

 

 一際、

 鮮やかな血の花弁が

 辺り一面に飛び散った

 

 鞠が転がる如く、少女の首が地を弾み、

 真っ赤に染まった身体が、糸が切れたように崩れ倒れた。

 

 対象的に一滴の血糊もついていない刀を鞘に収めると、俺は倒れて動かないイルカの元にしゃがみ込む。

 遠くで高まってくる耳ざわりな野次馬達の声を無視して、俺はイルカの肩に手を当てた。

 「・・・・」

 揺り動かそうとして、その手を止める。

 脇腹から大量に出血するイルカは、血の気の失せた顔で、定まらない息に肩を上下させていた。

 再び周囲を見渡す。

 すぐ傍に、寂れた居酒屋。

 その軒先から恐る恐るこちらを眺めていた人間の影。

 俺はその店先に駆けこむと、懐から出した財布を店の主人に放った。

 「清潔な布・・そうだな・・着物でいい、持って来い!」

 威圧する様な声で怒鳴ると、主人が慌てふためき、まろびながら奥の部屋に駆けこんで行った。

 俺は真新しい酒瓶、水桶などをひっ掴むと、店を出てイルカの元に駆け戻った。

 先ほどまで遠くで眺めていた野次馬が、いつのまにかその周囲を囲んでいる。

 「そいつに近寄るな!」

 俺の声に、肩をびくつかせて野次馬達は、蟻の子が逃げていくように散っていった。

 イルカを仰向けに寝かせ、服を捲くって傷口を診る。

 水でかるく血を拭う。

 ちょうどそこへ、先ほどの店の主人が、白いうちかけや手ぬぐいを持ってきた。

 「すまないな」

 俺がそれを受け取ると、主人は俺が渡した財布もその場に置いて、逃げるように去っていった。どうやら金には手をつけていないらしい。

 余計な事に関わりたくない・・・と。

 

 「か・・・カカシ・・・」

 かすれた声が、途切れ途切れにイルカの口から漏れてくる。

 布地を口で引き裂きながら、俺が「喋るな」と応える。

 イルカは首をわずかに起こし、手を伸ばす。

 「動くな」

 「あ、あの子供は・・・・どうした・・・」

 絶え絶えの息。

 脂汗でじっとりと濡らした顔面は、先ほどより更に青白い。

 「ガキは斬った。それより、もう喋るな」

 「な・・・」

 血止めの為に、傷口の上下をきつく布で縛る。

 痛みにイルカは顔をしかめる。

 「何・・・て、事・・・を・・・」

 その眉目にあらわれる表情は、身体の痛みよりむしろ俺の言葉にむけた憐憫だった。

 

 何を考えているんだ・・・こいつは・・・

 

 「自分の心配をしろ。喋ると身が出るぞ!」

 思わず、手当てをする手が止まった。

 「あのガキは忍だ。精神制御訓練を受けたな・・・」

 唇をかみしめ、口惜しげに俺は言葉を吐き捨てる。

 こんな時までガキの心配を第一にするイルカが、理解できなかった。

 「微塵の殺気も漂わせずに標的を殺すように育てられたガキだ」

 

 「・・・え・・・」

 「この俺も殺気をまったく感じ取れなかった・・・」

 「堪えろよ」と俺はは酒をたっぷりと布に染み込ませる。

 「っう・・・!」

 それで傷口を拭うと、イルカの身体が一度、びくりと強張って痙攣した。

 「・・・あ・・・っ・・は・・・ぁ」

 イルカの呼吸が一段落つくのを待ち、今度は傷口を布で固く縛る。

 傷口に触れる度、叫びにもならない声を喉の奥で殺して、イルカは耐える。

 「おそらく敵軍で育てられた子供達だろう」

 孤児や、売られた子供を集め、徹底した洗脳教育を行い、暗殺など隠密任務にあてがう組織が多く存在する。

 子供達は、与えられた任務、与えられた命令のみを忠実にこなす。標的を殺すことに何の疑問も躊躇も持たない。

 だから・・・  

 殺気を微塵も感じる事が出来なかったのだ・・・・。

 

 迂闊だった・・・。

 

 声を殺しながらも、苦痛に目許を歪め、せきこみ、血を吐くイルカ。

 俺にに、罪悪感がのしかかる。

 イルカは、俺の袖を強く握っている。痛みに耐えるためにすがるように。

 きつく閉じられていた目が、うっすらと開く。

 「・・・・」

 きつい血の臭いを感じ取って、イルカはその方向にわずかに首を傾けた。

 ぼんやりとした視界の中で、それでも、首がない子供の身体が確認できた。

 「・・・・・・・」

 その視線の先を、俺も追う。

 イルカが何を見ているのか・・・。

 それに気づき、俺はイルカの顎に手をかけ、自分の方を振り向かせた。

 「・・・頼むから、自分の事を考えろ。お前、今の状況が分かってるのか?」

 自分の声がわずかに上ずって震えているのが、分かった。

 喉の筋肉が、こみあげる感情に自由を奪われて、わなわなと震える。

 傷口をしばった上からまた重ねて布を捲き、きつく縛る。

 もう痛みも麻痺してしまったか、イルカは少し顔をしかめただけで、今度は声を洩らさなかった。

 

 「でも・・・」

 

 荒い息に混ざって、イルカが声を絞りだす。

 

 「・・・・」

 俺はもうそれをとがめる気もせず、ただ、正面からその目を見つめて、言葉を待った。  

 

 

 「でも・・・花は・・綺麗だったんだ・・・・・・」

 

 

 俺がその言葉を理解するまでに、  

 

 更に月日が必要だった。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 奇遇だな。  数年ぶりにアカデミーで会った元同僚は、そういってまぶしいほどの笑顔を俺に向けた。

 「でも、あんたにだったら、安心して任せられる」

 偶然、廊下ではちあわせた。声をかけてきたのは、イルカの方だった。

 まるで俺を探しているようだった。

 「傷はもういいのか?」

 俺の言葉に、イルカはきょとんと目をわずかに見開く。

 野暮な事を聞く、と思っただろうか。

 数年前の腹の傷は、とうに癒えているはずだ。

 だがあの傷は相当の深手で、化膿する危険性は十分にあった。

 全快する姿を確認する前に、俺達はそれぞれ離れていったから・・。

 あれでも俺なりの、気の効いた挨拶だったのだが。

 だがそれも酌みとってか、イルカは再び目を細めた。

 「ありがとう、もうすっかり。それにしても、よく知ってたな、背中の傷の事」  

 

 え?

 

 俺はつい、目を見開いて硬直した。

 背中?

 

 そんな俺を後目に、イルカは照れて鼻の頭を掻きながら

 「カッコ悪いなぁ・・・そんなに話が広がってるなんて・・」とぶつぶつ呟いている。

 

 それとなく話を聞きだしてみれば、

 最近子供をかばって大怪我をしたという。

 

 あの、狐小僧を。

 

 里でのんびりと教師をやっていれば、あの時のような目に遭う事はないだろうとふんでいた俺が、またもや迂闊だった。  

 

 

 俺は額に手をあてて大きなため息をついた。

 「・・・で、背中の傷の方は?」

 「え、だからもう大丈夫・・・・・・?」  

 何も理解出来ていないこの元同僚は、首をかしげながらも、笑顔で俺に応える。  

 

 

 あまりにも脆く、危うい、だが尊い存在・・・

 

 

 それを守る為ならば、  

 

 だから俺は・・

 

 

 

 

 花を美しいと思う心など

 

 

 

 もういらない・・・・・     

 
 

 おわり。

2005.10.25.Tue/14:10
  貔嫌來冥 


貔嫌來冥 ~虎ト豹ニ似シ獣、冥界ヨリ来タルノコト~



 貔(ヒ)  猛獣ノ名。豹ニ似ル

 嫌(チュ) 猛獣ノ名。虎ニ似ル

  イズレモ昔、戦ニ用イタ事カラ、勇敢ナ兵士、勇猛ナ軍隊、将卒ニ例エラレル



血芥編

 

 戦任務の為、里を出た二十人ばかりの木の葉小隊。

 それを率いるは、上忍猿飛アスマ。

 戦任務においては戦歴輝かしい剛の者。



 政府軍と独立を叫ぶ革命軍による民族浄化の虐殺内紛が続く藜国、そして民族的に縁の深い百済儀国。

 革命軍偵察の為に先に木の葉を出立したが、その数週間後には行方を絶った木の葉の諜報部隊。

 火影から命を受け、アスマはその行方を追っていた。



命を受け藜の国境付近まで一隊を近づけたアスマ。

 隊を二つに分け、一つを藜国内にて現状情報の取得と伝達を任せ、アスマを含む一隊は国境付近の渓谷を抜け、藜国内にいる一隊からの情報を受けつつ、最後に連絡が来たという木の葉先発隊の陣跡を目指して進んでいた。

 消息を絶った木の葉の影を掴む事が出きるはず。



 だがその直後には、

 藜国内の一隊から訃報が届けられる事となる。

「………」

 伝書鳥がもたらした書簡を広げたアスマの眉目に深い皺がよる。

 くわえ煙草が、噛み潰された。

「アスマ上忍……何と?」

 周囲で見守る部下達は、悲報を覚悟に耳を傾ける。

 口端から煙草をはき捨て、アスマは苦々しく、だが静かに言う。

「……藜の中心街で、木の葉の忍びと思われる遺骸が数体、晒されていたそうだ」

「なっ!」

「それじゃあつまり…」

 部下達の反応に、アスマは一言、

「やられたな………」と頷くのみ。

 戦において切り札といえる忍びをどれだけ雇い、用いられるか。その財力があるか。

忍び隠れ里を持たぬ国にとってそれが、勝敗を左右する大要素となっていた。

 だが、そんな事を一蹴し嘲笑う、革命軍によるそれは、「見せしめ」だろう。

「……どうしますか。里への報告は?」

「俺が確かめた訳じゃねぇしなぁ…とにかく…東へ進みつづけて、先発隊の軌跡を追う。今出きるのは其れだけだ」

「そうですね……敵の大隊にぶち当たったら、どうしますか」

「ケツを尾けて、情報を探るさ」

「……ですが、先の一隊が殲滅という事になると……二の舞を踏みかねますが」

「仕方無ぇだろうが。嫌な事考えるな」

 アスマは懐の煙草入れから新しい一本を取り出すと、口に放り投げてくわえる。

「では先発隊は……」

「捨てるさ。当たり前だ。もう誰も生きちゃいねぇ。革命派は捕虜なんぞとらないだろうからな」

 ましてや他国からの、しかも忍びだ。人質にもなりゃしない。

 そう、アスマは付け加える。



 敗北は死。

 忍びにとってそれは常。

 だからこそ、使い勝手があるというものだろう。



 優秀といえど、

所詮は

 捨て駒なのだ。



「…………」

 行使力提示の為に無残に殺された木の葉先発隊。

 考えられた結末の一つである故、アスマは冷静に無駄な感情を切り捨てる。

 とにかく、一隊を東に進める事が、今のアスマの使命だった。

 藜国内に潜入させた忍びはそこに据え置き、引き続き情報を送らせると決める。



 地図に添えていた指先で東への道を辿る。

 ある場所で、アスマの指が止まった。

「……もう幾里が進んだところに、先発隊が陣を張っていた裾原野がある」

 急ごう。

 休ませていた部下を奮い立たせ、アスマは再び、歩を進め始めた。



 空を覆うばかりの渓谷の底は、

 通り抜ける風がやけに強く冷たい。

 時折その風に錆の匂いが残る。

 冷たく、そして湿った風が肌に纏わりつき、不快な汗となって滴る。



 渓谷の秋は、

 寒い。

 だがこの先に待ち構える血の闇は、

 

 どこまでも息苦しい。





 渓谷を抜け、山に入り、そして、

 河岸に出た。

 クジャクシダやウラジロが足元を埋める叢を踏み越えると、蒲が生える川べりに出る。

 上流からの水が空虚な音を立てて、所々に淀みを作って流れていく。

 谷山中において陣を張るとき、河岸際に張る場合が多い。地図をみれば、この川沿いに沿った場所が、目的地。

「ここからは河に沿って上がるぞ」

「了解」

 ちょっくら休むかなぁ…、とアスマは額当てを外し、汗を拭って一言。

 その言葉に、数人が喉を潤そうと水辺に歩み寄った。

 手ごろな岩に腰を下ろし、アスマは懐から香草を一枚取り出すと、それを口に放り込み噛み潰した。

 流石に、敵から姿を隠しながらの移動に煙草は禁物。これはほんの、慰みものだ。

 水辺では、くの一達が顔を洗い、汗を流してはなにやら談笑。それを後ろから眺めて「やれやれ」と苦笑しつつ、アスマは大きく深い息をした。



 と、

 風がそよぐ。



「………?」



 匂い。

 アスマは立ち上がる。



「アスマ隊長…?」

 急に瞳の色を変えたアスマの様子に、側の部下が眉間に皺を作って問う。

 頬を撫でる程度であった風は、渓谷で浴びた風のように強いものに変わり、横殴りにアスマの全身にぶつかって通り過ぎる。

「血の匂い…」

 軽い舌打ちと共に、アスマは河に視線を向けた。

 同時に、

「きゃっ!」

 小さな悲鳴。水辺にて水を手ですくっていたくの一が、牽制するようにその場から後ろに一歩飛びずさった。

「どうした」

 とその場に集まる忍び達。

 そして、

 一様に眉を潜め、奥歯で呻きを噛み砕く。



「あ~あ…こりゃぁ……」

 水辺を覗き込んだアスマの声。

 蒲や葦が生える、さほど水深の無い清流は、

 突然

 血の河と化していた。

 

 匂いの正体。



 始めは薄い血の色。

 それが濃さを増し、粘り気をおび始め、そして仕舞いには……

「アスマ隊長、あれは……」

 上流から流れ、アスマらのすぐ足元に栄える葦にせき止められたのは、



 贓物。



 紅い贓物が、尾を引きずって後から後から、

流れ着く。

流れが淀んだ溜りに、それはせき止められ、そして吐き気をよぶ匂いを撒き散らす。

 顔を青くする面々の前で、アスマは右手を流れに突っ込んだ。

「………」

 見守る面々の瞳に影が落ちる。

 アスマは、贓物の一つを鷲掴みに拾い上げると、すぐにそれを再び流れに捨てた。

 そして、苦々しく、絶望的に呟く。

「まだ暖かい……」

「っ!」

「なんてこった…」

 顔を上げ、アスマは上流を見据える。

 だがすぐに決断したように振り返ると、居並ぶ部下に向けて命令を下した。

「小暮、御崎、瀧野、茅の四名は此処に残り、封陣術を施して待機だ」

「は、はいっ!」

「蘇我江、鐶、設楽の三名は、河岸を避け、北廻りで目的地まで来い!合図があるまで姿を隠して待機だ」

 次々と出される指示に沿い、部下達が隊列を並べ替える。

「後の奴は俺についてこい」と最後の命令を言い終わると、

アスマはその場から踵を返して荷物を背負い、「急ぐぞ!」と自らが先頭にたって上流方向に歩き出した。

 部下達もすぐさま、その後を追う。

 そして残りは、命令に従い四方に散った。



 アスマらは腰からくないを引き抜き、それを手に気を張りながら進む。

 極力に気配を殺し、足音を消し、息を殺し。

近づく夕暮れの独特な淡い木漏れ日に紛れて、叢に影を隠す。

「………」

 人一人分の体重はあろうかという荷物も気にならない。アスマの足取りは速く、強く、岩を越え、叢を越えて上へ上へと向かう。

 額当ての下では、冷たい汗が滲んでいた。

 楽観的な事は、何一つ思い浮かばない。

 だが、

 あまり細かく考えたくも無かった。



 歩を進めるにつれ、風が強い錆の匂いを運んでくる。

 空気は次第に生暖かさを増し、淀む。



 誰の嗅覚にも明らかな、

 鉄錆びの匂い。

 むせ返る、嘔吐の気。



 どれだけ歩いただろう。



 そして、



 焦げた肉の匂いがした。



 アスマは身を沈める。

 幕が引かれているように、目の前を遮る羊歯の葉と、そして欅の大木。そこを抜ければ…。

「…………」

 気配は、無い。

 この向こうに、

 待ち受けるのは、悲劇か惨劇か、

(むしろ喜劇かもしれねぇな…………)

 口端に冷酷な笑みを一度浮かべ、アスマはくないを構えて立ち上がった。

 大木を抜け、羊歯を潜り抜けて開けた河岸の盆地に脚を踏み入れた。

 

 急に開ける視界。



「ちっ…!」



 そこは、

 うつつならぬ地の果てと思えた。



 見慣れないわけでは無い光景だが、

 流石に、気分が悪かった。



 引き裂かれ破れた陣営幕が、残骸となってあたりに転がっては風にはためいている。

 湿った土質の大地に残された所々焦げ跡は、すでに朽ちかけており、武器庫等の仮屋も無残にガラクタと化していた。

 これは恐らく、戦った跡。奇襲を、受けたのだろう。

 そして、

 アスマの視線が捉えた物は、

 地に転がった人の残骸。



「………凄まじいですね…」

 背後から、部下が呟く。

 腕、脚、そして首。

 中には腐れかけ、土と共に朽ち果てようとしていた遺骸もあった。

 かと思えば、血の色もまだ鮮やかな、比較的「新しい」ものもあり…。

「………」

 アスマは無言で、陣営の中に歩を進めた。

 川沿いを見れば、腹から贓物をはみ出して水につかる遺骸が数体。

 流れてきた血と贓物の持ち主だろう。腹に刃物が突き立てられ、手が無いもの、脚が無いものもある。

「………」

 先ほどにアスマが触れた贓物は、

 まだ生の温度を持っていた。



 さすれば、

 つい先ほどまで、ここに敵か何者かがここで血祭りに興じていた…という事になろう。



 だが、先ほどから味方は元より、気配は無い。

 

 八方を見渡す。

 酷い拷問を受けた末に殺されたであろう人の名残が、あたりに散らばっている。

 女も男も、輩には問う事では無かったらしい。

 足元に転がるくの一らしき遺骸に、アスマは悲痛そうに目端をゆがめた。

 陵辱を受けたのか、露な白い肌のまま、贓物や汚物にまみれて芥の如く地に転がっている。

「………畜生が……」

 そんな怒りを噛み潰した言葉も、今は空しく消えていく。



 部下達はそれぞれ、陣営内を歩き回り様子を伺っていた。

 片手にくないを構えた、警戒の姿勢のままで。

「先発隊…全滅……か」

 火影への報告書の文面が、苦々しくも思い浮かぶ。



 しかし同時に、疑問が生まれる。

(………ここまで酷く無残にする必要がどこにあった…………)

 特に川辺に転がり腹を裂かれた遺骸。

 まるで腹の中を手づかみで探っているような執拗さ。

「………………」

 血の水溜りを踏み越えて、アスマは河に向かって歩を進めた。

 すると、

 河岸とは反対方向から、「アスマ隊長!」と部下の声が上がった。







「生存者発見!」







「!!!」

「何っ!」

 考えるより先に、体が声の方に向かっていた。

 同じように、残りの部下達も血相を変えて駆け出す。

 だが誰も、その面持ちに楽観的な光を携えてはいなかった。

「本当かっ!」

 死体や瓦礫を飛び越えた処は、森の入り口付近。

 通常の陣営であれば、この中心に火をくべて憩いの場とする広まった場所なのだが、今は血と贓物にまみれた屠殺場だった。

「……っ…」

 ここでまた、アスマは怒りを奥歯で噛み潰す。

 杭に鎖で繋がれたまま果てて朽ちかけた遺骸が数体並んでいる光景が、そこにあったのだ。

 神経を握りつぶす悪臭が漂う。

 その中で、

「アスマ隊長……」

 部下の消え入りそうな声。

 半ば呆然と、立ち尽くしているその足元を見れば、

「………生きてる…のか……?」

 死骸を拘束して並ぶ木杭。その端に同じく杭が打ちつけられており、そこに繋がれた人間がいる。

 地面に腰を下ろし、両腕と体を鎖で杭に戒められ、首を力無く垂らしてうな垂れている。

 木の葉隠れの忍びが着用する黒い上下。

 そして、結われた黒髪の

 男。

 

 肩、腕、脚など数箇所に、拷問の跡だろうか。くないが突き立てられていた。

 傷口や口から流れる血が、その男の周囲を濡らして汚している。

 まだ、新しい鮮やかな紅の血は、色あせて地に染み込んだ血痕の上にまた新たな血溜りを作っていた。



 もうどのくらい、

 ここにこうしていたのか。



「………」

 見れば、肩が僅かに、長い間隔をあけながら静かに、緩慢と上下している。

「………………」

 誰もが、声を殺して立ち尽くし、目の前の光景を見つめる。

 

 消え入りそうな吐息が





 微かに聞こえた。







「生きてやがる……」

 語尾が震えたアスマの声。

 部下達の表情が変わる。

 自らの声に我に返ったアスマは、男の側にしゃがみ込んだ。

「おい…」

 まず、小声で耳元に呼びかける。

 反応は無い。

「おいっ…」

 語尾を若干荒げ、再び耳元に呼びかける。

 反応は無い。

 掠れた吐息が、アスマの耳に届くだけ。

「…おいっ!起きろ!」

 溢れた何らかの感情が、アスマに怒声を上げさせた。

 男の肩を掴み、一度揺すって意識を引き上げさせようとする。

「アスマ隊長……」

 そんな無茶を…と部下が咎め掛けるが、アスマは意にも介さない。

 掴んだ肩は、体温を感じない。

 このまま引きずり上げなければ、

 この命はどこまでも沈んでしまい、もう戻る事は出来ない…。

 アスマはそんな、思いにかられる。



「……っ…ゴホ……」

 軽い咳き込み。

 それと同時に、男の吐血がアスマの膝を汚した。

 喉を塞いでいた血反吐が、吐き出されたのだ。

「鎖をほどけ!」

 すぐ側に立ち尽くす部下に、アスマは一喝。

 肩を一度震わせ部下らは、男を拘束する血で錆びた鎖をくないで削り切り離す。

 ガシャリという音と共に鎖が外れ、男の体が揺らいだ。

 アスマは両腕でそれを受け止める。背中を支え、抱きとめた。



 また、軽い咳。



「………………」

 アスマは男の顔を覗き込む。

 男の口元は血と反吐で汚れ、そればかりか顔中は血を浴びたのか、乾いた赤黒い血で汚れていた。

 傷だらけの額当てが、男の両目を覆って隠している。

「……下らんな………」

 短く吐き出されたアスマの呟き。





 処刑寸前の、最後の情けのつもりか……?

 こうして最後まで残され……ありとあらゆる惨劇を見せ付けられただろうに………





 眉間に苦々しい皺を寄せ、

 アスマは男の額当てを外す。

 鼻筋を横に通る一本傷と、閉じられた両目が現れた。



 忍びにはあまり見かけない、

 戦を知らなさそうな童顔があった。



 まだ若い。



「刃物を抜くぞ」

 肩から脚にかけて数箇所につき立てられたくないや小刀。

 薬師の忍びが隣から白布を手に駆け寄る。

 アスマは、もう既に痛みなど感じていないであろう男の体から、素早く次々と刃物を引き抜いた。

 せき止められていた血が溢れ出す傷もあれば、もう乾ききった傷もあった。

 傷口を白布で固く結ぶ。

 

 本来であれば、そうとうな痛みを伴う。

 だが、

 男は反応を見せない。



 神経が焼ききれているのではないだろうか……。



また、男が軽い咳。



喉の奥で、空気がつまったような。



 アスマは男の肩を左手で抱き寄せると、右手で顎を持ち上げた。

「……ここまで来て、死ぬなよ……」

 そう男の耳元に強く言い聞かせると、アスマは男の唇に自らのを重ねた。

 口の中、喉を塞ぐ血塊を吸い上げ、

 吐き出す。

 そして息を送り、そしてまた血反吐を吐き出す。



 何度もそれを、

 繰り返す。



 一度唇を重ねるたびに、



 死ぬなと言い聞かせ…。



「………」

 それを上から、ただ見守るしか出来ない忍び達。

 意識を揺らがす血臭の中で。



「……っ……がはっ…ごほ………」



「!やった!」

 くの一が思わず声を上げる。

 何度目かの人工呼吸の後、男は急激に大きく咳き込み始めた。

「よしっ…!」

 男の体をアスマはいっそうに引き寄せる。

 幾度かの咳のあと、喘ぐように男は自ら深い呼吸をするようになった。



 そして

 瞼が開かれる。



 曇りの無い黒い瞳が、現れた。



「…………」

 黒い瞳は、覚醒して目の前にある状況をただちに理解出来ないらしく、まだまどろんだ様な色でアスマを見つめている。

「………」

 アスマはしばし、男の意識がはっきりと目覚めるまで、無言で見つめる。

「…………ぁ……?」

 瞳を動かし、やっとうごく首を擡げて、アスマの前に並ぶ部下達を見やる。

 そしてまた、アスマに視線を戻した。

「……ぁ……う……」

 声を出そうにも恐らく薬で喉を潰されたのだろう、掠れた声にならない声。

 男は動かない腕を必死に持ち上げ、力ない指先をアスマに向ける。

 その指先は、

 アスマの額当てに…。

 額当てに彫られた紋章の形を、

 探っている。



 木の葉の印。



 男のその手を、アスマがとらえて包み込むように握る。

 その大きな掌で。

 そして男の体を包み込むように抱きしめて、アスマは静かに、告げる。



「………もう大丈夫だ。俺達は、木の葉の忍びだ……」

 

「……………」

 力無く垂れていた男の左手が、さぐるようにしてアスマの広い背中をたどる。

 そして、残った限りの力で上着の背を握り締めた。

 腕が、そして肩が震えていた。

「っう………」

 胸の下から聞こえる、声にならない嗚咽に、アスマはいっそう男を強く抱きしめる。

「………ぁ……っ…」

 アスマの胸元を濡らす男の涙が、

 熱い。



 生の温度。



「………」

 小さく震える男を包むアスマの温度。

 それに縋りつくように、求めるように、男はアスマの背に回した手を握る。引き寄せるように、抱きしめる。





 けぶるような血の臭いと

 眩暈のするような赤



 

 この哀れな生存者が、

 どこまでも 愛しい。





 アスマは、血に濡れた男の体を抱きながら、

 冷たい手を握りながら





 安堵と疲れで男が気を失うまで

「大丈夫だ」と言葉を続けた。











続編




虎豹冥來 弐



人芥編







「様子はどうだ」

 四人を待機させてあった河岸まで引き返した猿飛アスマ一隊。

 仮陣屋に寝かせた黒髪の忍び。その様子を伺いに、アスマが訪れる。

 男の側についていた薬師のくの一は「呼吸は大分落ち着いてきました」と、擂鉢で薬草を擂りながら静かに応えた。水のせせらぎと、擂鉢の音に紛れて、男の呼吸は聞こえてこない。

 が、胸の上まで掛かった白布が微かに上下しているのを見て、アスマも小さく安堵の息をつく。

「そうか」

 と呟き、そして

「ただ…」と付け加えた薬師の言葉に「ん?」と僅かに眉を潜めた。

「怪我による発熱があって、時々うなされています。まあ、熱だけの所為では無いのでしょうけれど…」

 語尾を遠慮がちにすぼめた薬師は、手を止めて男を見やる。

 額には濡れ布巾が載せられているが、頬は紅潮しており、うっすらと汗ばんでいる。

 入り口に立ったまま、アスマも同じく視線をそこに合わせる。

「ん?もう一人の、男の薬師はどうした?」

「河の方で、汚れた包帯を洗いに…」

「そうか」

「・・・…」

 くの一は、短い間の後に、報告を続ける。

「くないや刃物による怪我は、あばらを傷つけていた二本を除き、あとは軽症で済みました」

「喉を潰していた薬は?」

「おそらく、水銀を調合した毒…ですね。時の経過と、治療と共に声は戻るでしょう」

「他には」

「・…・・…もうひとかたの薬師によれば……酷い陵辱の跡も見受けられたそうです」

 言いにくそうに、くの一は目を伏せる。

 性的行為に男女を問わないのは、忍びの戦世界ではそう、珍しく無い。

だが、くの一薬師が目元を細めた理由は、他にある。

あえて、アスマはそれ以上詳しくは尋ねない。

「そうか…」

「あ…いけない…」

 擂鉢に付け足す薬草が切れているのに気付き、薬師は軽く声をあげた。どうした、と目線で問うアスマに「薬草が…」とだけ応えた。

「行って来な。俺がここにいる」

 返事を待たずに、寝台に横になる男の隣に腰を下ろし、アスマは親指で出口を指した。

 お願いします、と言い残して薬師は、薬袋を手に外へと姿を消していった。

 続いて、外で微かな話し声がしたが、それはすぐに遠ざかっていった。

 男を寝かせてある仮陣屋には、人除けを命じてあるのだ。

「・・…・…」

 深い溜息をついて、アスマは男の横顔を見る。

 先ほどより多少、呼吸が荒くなっていた。

「・・・…何があったんだ・・・…あそこで…」

 誰に問うでもなく、アスマは血が滲む包帯が痛々しい男を痛切な瞳で見据える。

 隊の一部を、あの血芥の現場に残して調査を進めさせている。

 去って行った敵の痕跡、その他手懸りを探させるためだ。

 惨殺…虐殺…

 いかなる言葉でも形容しがたいあの惨状には、何か意図がある気がしてならないのだ。

 河をも染め上げる夥しい人肉と臓腑と血の芥…。

「・・・…・・・…」

「ん・・・…」

「?」

 上掛けが擦れる音に重なって、くぐもった微声が漏れた。

 我に返ってアスマが声の方に目を向けると、

「……目が覚めたか……」

 額に乗せられた濡れ布巾の下で、黒い瞳が僅かに開かれているのが見えた。

 男の両瞳は暫し天井を見つめたまま、傍らのアスマに気付かぬ様子で固まっていた。

 喉から、ひゅーひゅーと、詰まったような息苦しい呼吸が聞こえてくる。

「・…?・・・…おい」

 意識ここに在らずといった男の様子に、アスマは眉目を僅かに顰めて腰を浮かせた。

 上から覗き込むようにして。

「・・…・…・・・…ぁ……」

 ようやくアスマに気がついた男の瞳が、アスマの視線をとらえる。

 熱に浮かされたような、薬で潰された為の掠れた声。

「痛むか?」

 アスマの質問に、男は首を横に一度振る。

「熱があるな。熱いか?」

 今度は、頷く。

「俺の言っている事が聞こえるな?」

 また、頷く。

「よっしゃ」

 発熱の為に潤んだ瞳が、何だか子馬を思い出させる。

 子供を相手にしているようだな、とアスマは内心がむずかるのを隠して豪快に笑みを浮かべた。

 男の右手をとると、自分の掌に押し付ける。

「オマエ、名前は?」と言って。

「・・・・・・・・・…」

 熱い呼吸をしながら、男は首を傾げてアスマの瞳を見やった。

 そして何かを確かめたかのように一度頷くと、ゆっくりとその指先を動かす。

 忍び文字で、アスマの掌に

 名前を刻む。

「・・・・・・…イルカ…だな」

 アスマがそれを読むと、黒髪の男、イルカは頷いた。

「俺は、猿飛アスマだ。便宜上、第二偵察隊の隊長をしている」

 今度はアスマが自らを名乗る。

 その一言一言に、イルカと名乗った黒髪の忍びは荒い呼吸と共に頷く。

 衰弱した身体には、一つ一つの呼吸さえも苦痛のように感じられる。それを気遣い、アスマはその場から腰を浮かせた。

「もう少し寝てろ。今、薬師が薬を調合してるところだ。諸々の事情は、体と喉が治ってから訊くか…」

 と立ち上がりかけたところで、強く裾を引っ張られる。

「…おい…」

 急に上半身を浮かせて、イルカがアスマの裾を引いて引きとめようとしているのだ。

 縋るような、否、むしろ鬼気迫った様子。

 何かを訴えようとしていた。

「・・・…今は寝ていろ」

 その腕を静かに離して、アスマはイルカの瞳に直接、言い聞かせる。寝具に押し付けるようにして、イルカの上半身を押し戻す。

 だが、強く首を振ってイルカは再び上半身を起こす。

 荒い呼吸を隠すように唇を強く噛み、アスマを見据える。

「一体何を…」とアスマが言いかけると、弾かれるようにイルカはアスマに背を向けると激しく咳き込んだ。

「がはっ……っ」

 苦しげに胸元を抑えている。

 外から、内側を覗く気配が幾つかあった。

 中からの声に気がついたアスマの部下らだ。

「おいっ…大丈夫か」

 肩甲骨にそって背中を擦ってやるが、イルカの咳は止まらない。

 ついには、

「っう…」と口元を抑えた手の指の間から、血液がボタリと寝具に朱紋を作った.

「薬師を呼べ!」

 イルカの両肩を掴んだまま、アスマは背後に怒鳴る。

「はっ!」と焦燥した声が一つ遠ざかり、もう一人が中に入って布を引っ張り出してアスマに手渡す。

「……っ…」

 口元から離したイルカの掌は、血液が大量に混ざった胃液でぬれていた。

 なおも口端からは、ぱたぱたと音をたてて寝具に朱色が滴り落ちる。



 だが…



「――……待て……」



 と、

 慌てて布を差し出した部下の手を差し止め、

 アスマは血にぬれたイルカの掌を見据えた。

「……」

 イルカが掌に吐いた血。

 そこに混ざった「何か」が、

 イルカの掌にある。

「…これ・・・・・・…」

 アスマの呟きに、顔を伏せたままイルカは頷いた。

 指先で、アスマは「それ」を拾い上げる。

 血と胃液に汚れたそれは、

 ごく

 微小な、豆粒ほどの「巻物」。

「・・・・・・…」

 幾重にも札が貼られ、血に汚れているが、中身が「巻物」であることは一目瞭然だった。







 忍びが任務において、

 巻物その他重要証拠物などを持ち出して遁走する際、

 術札を幾重にも貼り付け術をかけ、飲み込めるほどの大きさに形を変化させるという方法がある。







「・・・…『隠書札の術』・・・・・・…」

 瞬時に脳裏を過ぎった、様々に不吉な思案。

 アスマは低く呟き、指先で拾い上げた巻物の札を、はがした。

 すると、

 術が解け、巻物は本来の姿を見せる。

 書簡大の巻物が二つ。

 これらが、姿を豆粒大に変えてイルカの胃の中にあったのだ…。



一つは紅織が施してあり、重要書類を表していた。

そしてもう一つは、木の葉の紋章が掘り込まれた、貴重書類巻。



「・・・・・・……」



 渡された布で口元を拭い、深く、荒い呼吸をしながらイルカは、アスマにそれを読めと視線で促す。

 一巻き目、紅織の巻物をを紐解いたところで、アスマの眼は見開かれた。

「こいつは…」

 そして慌てて、二巻き目、木の葉の紋章が掘り込まれた方をひも解く。

 投げ捨てるようにそれらを膝元に放り、アスマは醒めた視線でイルカを振り向いた。





 

 切り裂かれた、腹。

 引き出された贓物。

 

 染まる、河。





 何かを探るように…







「まさか…」



 「これ」を探していたのか…?



 奴らは





「・・…・…」



 アスマの背後で、幾人かの部下が立ちすくんだように身動きを止めた。

 仮陣屋の外で微かに聞こえていた人の気配や声も、消えている。



「……・…・・…っ…なかっ……た」

 うな垂れ、寝具を握り掴むイルカの喉から、喘ぎのような嗚咽が漏れる。

 搾り出すような言葉と共に。



「も……う・…・・…………」

「もういい」

 顔面を、血と涙で汚すイルカ。

 その肩を掴み、アスマはイルカを振り向かせる。

 顔を背けようとするイルカの目の前に、片手で掴んだ日本の巻物を突きつける。

 驚動を瞳に浮かべて、怯える様に肩を竦めて身を引こうとするイルカの胸元に、アスマはそれらを押し当てた。

「よく守った・・・…」



 血に汚れた巻物を両手で抱き、イルカは顔を伏せて肩を震るわせる。

 何度も、何度も首を横に振って…。



 奪われれば、戦の行く末とあまつさえ木の葉の運命をも変えかねない、

 二つの巻物。



  説明を聞かなくとも、アスマにとって想像に容易だった。



 巻物を手渡したところで皆殺しにされるであろう状況。

 ならば、忍びであれば、

 最後までそれを守り隠す方を選ぶ。



 敵が、腹を裂く程に執拗とあれば、

 舌を噛み切り自害する事なく、最期まで時を稼ぐ方法を探る。



 里という名の主に従ずる、

 忍びならば。





「う…・・・…っ・・・……」

 悲しみと怒りと恐怖と…

 狂うほどに、様々な感情がイルカを襲う。

 二つの巻物を強く抱いたまま、イルカは塞き止め様とも溢れ出る涙と嗚咽に、唇を強く噛んで耐えていた。

 肩が震える。





 死ぬ事も出来ない状況の中で、目の前で繰り広げられる生き地獄の中で、

 肉薄する激烈な死の隣で



 狂う事も出来ない血芥の中で・・・…





 最後の一人になった時……







 戦慣れしている身とはいえ、

 アスマは首筋に寒気を感じた。





 震えてなく子供のようなイルカの肩を抱きとめようとして、

 アスマの手が止まる。

 思い直して、俯くイルカの顔面を両手で掴んだ。



「!?」

 突飛な動きに寸分驚く部下を余所に、アスマはイルカと真っ直ぐ視線を合わせる。

 触れるほどに近い距離で、真っ直ぐ。



「もう泣くな」

「・・・……」

「泣いて偲ぶより…」





 報復を考えろ。





「・…・・…・・・…」

「・・・・・・・・・…」

 

 ―――…強い



 アスマの掌の中で、イルカの黒い瞳が見開いた。

 太く、精悍な眉目が、まっすぐに、突き刺すようにイルカの瞳を射る。

 意識が引き込まれる感覚に、ぐらりと眩暈を覚えながらもイルカは胸内で滾る何かを感じた。



 ―報復



 殺してやる





 イルカは唇を強く噛む。

 胸内に沸き起こった熱が、今は涙となって流れる。

 悲しみではない涙が、アスマに包まれた両頬に止め処なく伝う。

 熱い。



「そうだ…殺すんだ・・・…」



 声の出ないイルカの内心をまるで代弁するように、

 静かに、低く、アスマが呟いた。

 

 同胞を引き裂き

 友を切り刻み

 何もかもを血で染め上げ

 自分を傷つけ、そして犯した奴らを



 決して許すな



 無言で、

 アスマはそう促す。



 そして





 「生きろ」





と。









 火影から、

 一度里へ帰還せよとの指令が来たのは、それから数日経ってからだった。





 終

2005.10.25.Tue/14:22
  かげろう 


 

 かげろう









 そこに差し出されたのは、確かに、敵将の首だった。









 戦の伏兵軍として依頼を受けた木の葉の忍部隊。

 その中に、今回は前衛部隊に所属された俺がいた。

 今回与えられた任務は、軍のからめ手として最良の助成を成す事。だが、将の首をとれば、その階級に応じて褒章が弾まれるという。

 忍達の間ででは、誰が誰の首をとったかという、その事が常に話題にあがり、まるでゲーム感覚で任務が遂行されていた。

 一番の目玉は、やはり敵将の首を誰がとるか、だ。

 その首には上忍一年分の給料と同額ほどの褒章が賭けられている事から、主に上忍達の間で、「誰が取るのか」と話が上がっていた。

 俺は、その話題の筆頭にあがっている。

 俺自身も、

 討ち取る機会を狙っていた・・・。

 自信も、あった。

 



 「しかしお前も、これ以上金稼いでも、何に使うんだ?」

 隣で、付き合い年月だけは何故か長い、元上忍仲間の八雲が杯を片手にくつくつと笑った。

 訳あって現在奴は、中忍として形式上、俺の下で共に戦場で働いている。

 「戦争孤児基金に寄付でもするか」

 「その戦争孤児を作ってるのは誰だよ」

 と、俺が最も嫌うこんな質の悪い冗談も、何故か奴となら交わせるから不思議だ。

 「ま、でも確かに、あの将軍の首を取れるとしたら…あんただろうな」

 俺に杯を勧めて、八雲は静かに微笑む。

 俺は黙って奴が勧める酒を受ける。





 そんな中・・・

 戦は唐突に幕を閉じる事となる。





 敵将の首を、見事討ち取った者がいた。





 しかも、

 一介の中忍が・・・。









 差し出されたそれは、確かに敵将の首だった。











 「お確かめ下さい・・・」

 全身を血で濡らした、まだ若い忍が右手に掴んだ首を差し出した。



 

 陣営中がどよめきに包まれた。

 陣営長を含む上忍仲間と立ち話しているところに、俺の目前に突然、差し出された首。



 俺は言葉を無くして目を見開いた。

 腕を組んだ姿勢のまま、立ちつくす。



 人相書通りの、首。



 それを差し出す、まだ若い忍。

 額当ての帯は、深紺。





 中忍だった。





 彼の背後で、友人だろうか、中忍達が数人歓声をあげていた。

 上忍を差し置いて中忍が最高の手柄をたてる。

 これは、上忍に決して逆らう事を許されていない中忍達にとって、胸をすくような出来事だったに違いない。いくら階級の差があるとはいえ、手柄に関しては絶対的な価値がある。

 それは、少なくとも今この場では、この中忍は、ここにいるどの上忍より、上部に位置する事を意味する。

 

 俺は、負けたのだ。





 「・・・・な、まさか・・・!」

 俺のすぐ隣で、上忍達が声をあげた。

 中忍は、軽く頭を下げて、首を検首台に置く。

 俺の、真正面に、首とその中忍とが向きあう形だ。

 その周りに、上忍達が群がる。





 それは一種、異様な光景だった。

 検首台の上に、鮮血まみれの首。

 見なれた光景である。

 だが、眼をひん剥いて醜く歪む首の向こうに立って俺と向きあう、黒髪の、まだ初々しささえ残す、若い忍の姿。



 「・・…」

 俺はしばし、置かれた首には手をつけず、弱くなっていく陣松明の明かりに照らされている中忍を、眺めていた。

 

 その時すぐ背後から、

 「お、イルカじゃないか」

 と声がした。

 振り向くと、赤茶けた髪の色が特徴的な元上忍、腐れ縁野郎の暁八雲。

 そして再び黒髪の中忍を振り向くと、

 大きな黒めを丸く見開いて、

 「・…八雲?」

 と驚く顔がそこにある。



 「……知りあいか?」

 俺は愚問を口にする。

 「昔、ちょっとな」

 と八雲は煮えきらない笑みを浮かべた。



 イルカ。

 それがこの中忍の名か。

 

 こりゃ当分、忘れられそうにもない名前だと、俺は思った。

 何しろ、そう考えるのはお門違いと分かってはいるが、狙っていた獲物を横取りされたのだから。



 俺は、改めて差しだされた検首台上の首を眺めた。

 偵察で見かけた時には威風堂々たる勇士振りを馬上に見せていたが、こうみると見る面影もない。

 「…では失礼します」

 と静かな声がして顔を上げると、

 イルカは顔を濡らす血を手の甲で拭いながら、中忍たちが集まる方へと去って行った。

 その後ろ姿を半ば呆然と見送りながらも、上忍達は検首台におかれた首を調べる。首の斬り口からは、まだ鮮やかな赤がしみだしては流れ、台を伝い、地面へ滴っている。



 俺は、去っていく血に汚れた中忍の背中を、消えて見えなくなるまで、見送っていた。











 「運が良かったんです」

 翌日、俺の問いにその中忍は、そう言って微笑んだ。

 諜報部に所属されていたというその中忍は、三つにわかれた木の葉軍に情報書の類を送り届ける為に、西山に陣どっていた第三陣営に仲間数人と向かっていたという。

 そこに、偶然、軍を西山とは反対方向のふもとに陣を移動させようとして動いていた敵軍の一隊と出くわした。

 その中に、

 敵将がいたというのだ。

 「失礼します」と言って立ち去ろうとする中忍の肩を、俺は掴んで引き戻した。黒髪の中忍は、目をわずかに丸くして、驚いたように振り向いた。

 「まて、運が良いで片付けられるものか」

 俺は中忍の両肩を掴むと、一度、強く揺さぶる。

 顔の中心、鼻を横切って一文字に引かれた傷跡。

 彼は眉目に怪訝そうな皺を寄せると、目を伏せた。

 「やけにこだわるな、お前」

 後で八雲にそう指摘された通り、俺はむきになっていた。



 

 だが、これは負け惜しみではない。

 プライドが、俺をそうさせているのではない。





 皆は首に気を取られていたのだろう。

 だが、

 俺は、感じた。





 首を差し出した時に一瞬見せた、



 あの中忍の瞳の奥で鈍く光った、何か。





 あれは、何だったのだろう。





 しかし俺は確かに、感じた。











 「おーい、イルカ」

 困惑する中忍の背後で、仲間の声がかかる。

 助かったとばかりに、その中忍は軽く頭を下げると、俺の元を去っていった。

 戦は終わったのだ。

 中忍達は引き上げの為の後始末、など雑事に追われる。

 最高の手柄を立てたあの中忍は、

 律儀にも日々とかわらぬ中忍としての立場を謙虚に保って仕事を行っていた。



 とんでもない伏兵だったという事だ。

 表立って前線で働く部隊ではなく諜報部に所属し、しかも「地味」と「堅実」を絵に書いたような、言いかえればあまりうだつの上がらなさそうな、まだ若い中忍。

 常に微笑をその顔に絶やさず、礼儀も正しく、人受けは良いが、空気の様な存在。



 誰も彼を気に止めていなかった。

 俺さえも・・。

 …そういえば、八雲でさえも、あの時初めてイルカに気づいたような口ぶりであった。



 見苦しい嫉妬や、プライドを傷つけられたと憤慨する上忍達も、そんな彼にには空振りをくった様だった。昨晩までは、妬みによる私刑さえ起こりかねない程の陰険な空気がよどんでいたというのに・・。

 陽的な敵概心が、中和されて抜け落ちてしまったようだ。



 不思議な男だ・・・。



 その奥に隠れる、

 俺は見逃さなかった、あの

 「何か」も含めて・・・



 俺は、確かに、こだわっていた。

 



 











 戦が終わると、残っていた雑事につきものなのは、

 残兵狩りだ。

 生き残った雑兵、逃げ隠れた将兵らを見つけ出し、処刑したり、情報を引き出したり、依頼主に引き渡すのだ。ここでの成果も、褒章に含まれる。だが、これはほとんど中忍達の仕事となるのが通常だ。戦中は上忍らが手柄をたて、そのおこぼれとしての残兵狩りで中忍が点数を稼ぐ。そういう風に出来ていた。

 戦場からそう離れていない山の麓に陣幕を張り、俺達はこの日、山狩りを行う事となった。

 とはいえ、残兵狩りに参加しない上忍達は、陣営の傍に早速火をおこし、酒宴に興じ始める。俺も、酒は断ったが陣営から少し離れた林の入り口、手ごろな木の上でくないの手入れをしながら、静かな時間を享受していた。

 

 

 「?」

 林の中から騒がしい声が近づいて来て、俺はまどろみかけた意識を引き起こされた。

 膝の上に乗せていたくないを取り落としそうになるが、間一髪でくいとめる。

 くないをすべて腰の鞘にしまいこみ、俺は体勢を変えて音や声がした方を木の上から覗きこんだ。

 

 「…雑兵か…」

 見ると、木の葉の忍び数人に連行されていく、敵方の兵士の姿。

 両腕を後ろ手で結わえられ、背中を押されながらおぼつかない足取りで歩かされている。

 「だから俺は何も知らねぇ!」

 と震える声で叫びながら訴えている。

 だが忍びらは、「黙って歩け」と冷酷に言葉を突き付ける。

 「うおっ!」

 背中を強く押されて、兵士がもんどりうって前方に派手に転んだ。

 転んだところで、林を抜け出した。

 そのちょうど前方から、俺が見知った人影…。



 「乱暴はいけませんよ」



 と言いながら、転んで倒れたままの兵士の元にしゃがみこむ、黒髪の中忍、イルカ。

 後ろ手に縛られている為に上手く身動きがとれない兵士は、倒れたままの姿勢でイルカを見上げる。

 穏やかで優(やさ)な面持ちのイルカに地獄の中の仏を見たか、すがりつくように体をよじらせて首を上げる。

 「お、俺はただの雇われ雑兵だ…だから何も知らないし、知らされていねぇんだ…」

 その顔を覗きこむように、イルカはしゃがみこんだままの姿勢で静かに問う。

 「本当に、あなたは何もしらないんですね?お名前は?」

 と脇に抱えていた厚い紙の束を捲り始めた。

 恐らく諜報活動の中で敵方から入手した、戦闘構成員一覧だろう。

 すでに首をとった将兵級の人物には赤印がつけられている。

 「え・・・っと・・」

 兵士が口にした名前を、イルカは一覧から探す。

 「あ、ありました。確かに、最も最下層に位置する公募による傭兵部隊に所属されてましたね」

 そして立ちあがり、忍び達に少々厳しい口調でたしなめる。

 「彼は本当に何も知りません。一般人ですよ。むやみな拷問や処刑をする必要はありませんよ」

 忍びらは複雑な表情だ。





 「……お綺麗な事を…」

 俺は木の上で、つい溜息をつく。



 戦争が終わった後の雑兵なぶりは、忍びらの間では通例と化していた。

 「取り調べ」という名の拷問。

 「処刑」という名のなぶり殺し。

 体から抜け落ちない「気」と「血」の高ぶり。

 それを持て余した忍びらは、戦時中よりむしろ残酷になる。

 なにしろ、仕事ではなく、一種の遊戯でそれを行うのだから。



 イルカはおそらくそうした行為を未然にする為に、こうして名簿を持ち歩いて「取り調べ」の必要の無さを立証しているのだろう。

 ああいう風に言われては、奴らも引くしかないだろう。

 しかも相手は、今回の戦の「立役者」でもあるのだから。





 俺はあの悪趣味に賛同するわけではないが、かといって「人権」がどうのという、綺麗事をいう主義でもない。

 だからどうも、俺にはイルカの行動は背筋にかゆみを呼ぶ。

 あの雑兵の縄を解いて、逃がしてやるとでもいうのだろうか。

 



 「じゃあ、この雑兵をどうするっていうんだ?逃がすのか?」

 俺の疑問を代弁して、忍びの一人がイルカに問う。

 その台詞には「せっかくの獲物を…」という本音が見え隠れしている。

 残りの二人も、不満気だ。

 「あたりまえでしょう?」

 眼を丸くして、イルカは逆に不思議そうな顔をする。

 そして眼を細めると、



 「こうするんですよ」



 と言って笑った。



 

 ボギッ





 「!」

 「っあ!」



 イルカの言葉が終わらない内に、



 その場に不気味で不吉な音が響いた。



 「………」

 俺は思わず腰を浮かした。

 忍び達は突然の事に息を飲んだ。





 すぐ下には、



 首が不自然に変形して折れ曲がった、雑兵の屍。





 叫ぶ暇も、苦しむ隙も、無かったろう。



 

 「やる事は、まだまだ沢山あるんですよ」

 名簿を小脇に、イルカは苦笑した。

 一瞬にして雑兵の首をへし折った右足を、屍から離す。

 悪びれる様子は、無い。

 躊躇も、なかった。



 

 つまりは、

 取り調べだとか、処刑にそうそう時間をかけている暇はないんですよ。



 こう言いたい訳か……。







 俺は、

 首筋に慣れない寒気を感じた。



 こういう光景も、

 俺は見なれていた筈ではなかったのか…。

 自問自答。

 

 俺自身も、何度となく敵兵の首を折り、掻き切ってきた。

 何度となく鮮血を浴び、何度となく断末魔を耳にしてきた。





 なのに…













 「気の良い奴ですよ。親切で気が利くし、お人好しで、地味だけど、堅実で」



 林から戻ってきた俺を出迎えたのは、

 酒小樽を抱えた、相変わらずにふざけた様子の八雲だった。

 林の中で見た光景を俺はかいつまんで酒の肴かわりに話した。

 「あのイルカという中忍はどういう奴だ」という俺の問いに返って来たのが、その言葉だ。

 「どこがだ」

 俺は八雲の手から杯をひったくって煽る。

 「こだわるんだな」

 苦笑する八雲の声。

 喉に流し込んだ酒がやけに熱い。

 俺は酒の匂いがする溜息を深く吐いた。

 「笑って人を殺す奴を、俺は多く知っている。だけど奴はどこか違う」



 「ああいう奴なんだよ。昔から」



 もう一つ杯を取りだして、そこになみなみと酒を注いで八雲は眼を細める。

 嬉しそうに少しずつ、それを飲んでいく。

 



 昔から…?

 奴はどういう戦歴を持っているというのだろうか。

 あれほどまでに冷酷になれ、しかもその殺気をまるで表に出さない術を、

 どうして手に入れよう…。 





 「気になる?」



 空になった杯を持ったまま、眼を伏せて黙る俺に、八雲は細く笑った目で俺に向きあう。

 「は?」

 「なんなら、仲をとりもってやってもいいんだぜ。なーに、昔の誼(よしみ)だ、遠慮するな」

 一人合点して八雲は半分まで減った杯を揺らして愉快そうに笑った。

 そして、こう言葉を付け加えた。



 「お前が何かに執着するなんて、珍しい事だし」



 「・・……」

 執着?



 唯一露出した右目に驚動の色を見せた俺にかまう事なく、八雲は杯を飲み干すと、またなみなみと酒をそそぐ。

 酒が弱いくせに好きな奴は、もう頬を赤くそめて上機嫌だ。





 「執着……か……」





 陣松明に火がともり始め、

 

 濃い藍色の空には、薄い白光の十六宵月が、いつのまにか出ていた。



 いつの間にか逢魔が時を過ぎている。





 俺は、

 八雲の手から小樽を奪うと、

 空になった杯に、透明な液体を注いだ。



 それが杯から溢れ、指先を滴り、地面にこぼれるほど。









 匂いにつられて、

 蜻蛉(かげろう)が鼻先を飛んでいった。











 おわり
2005.10.25.Tue/14:24

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北野ふゆ子

Author:北野ふゆ子
> 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。 得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。

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