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恋人の名前





「レオナ!」

 よく通る朗々とした男の声に名前を呼ばれて、騎士宿舎内に酒場を開く女主人、レオナは振り向いた。
 太陽が真上に昇った気持ちの良い日和、ちょうど中庭を横切ろうと渡り廊下から外に出た時だった。
 それにしても、騎士団内で敵うものはいないといわれる酒場の女主人を堂々と呼び捨てにするとは、如何な人物か。酒場の常連で大酒豪の猛者達でさえ彼女を「レオナの姉御」や「姐さん」と呼ぶのだ。
 中庭でその場に出くわした騎士団の面々は、恐る恐る、だが好奇心に勝てずにその声の主の方へと視線をやった。
 この声は確か…、
「………」
 レオナが振り向いたそこ、中庭から通じる裏門の前に、鮮やかな青が翻っていた。
 長身に纏われたその清清しくも深い蒼は、嫌でも騎士団の中で常に目立っている。同じ色を縁にあしらった騎士の制服の若者達の中にいる彼の名は、ノーマン。ロストリアの獅子騎士団長である。

 皆、レオナの反応を伺っている。中庭にいた人々のみならず、中庭を覗ける建物の窓からも、いくつか見知った顔がこちらを伺っていた。
 とにかく、名前を呼ばれたからには要件を聞かねばと、レオナが返事をしようと口を開きかける。

 ブルルルルゥゥ

 馬の嘶きがそれを遮った。
「よーしよし。レオナ」
 馬舎の方から部下が連れてきた馬に手を差し伸べて、噂の男、ノーマンは再びその名前を愛しそうに呼んだ。鼻面を撫で、擦り寄ってくる愛馬に自らも頬を寄せて首筋を軽くたたいてやる。
「馬の名前?」
「なんだー」
 拍子抜けした誰かの声に、部下の一人が気がついた。
「だ、団長」
「何だ」
「あそこにいらっしゃるのは確か…」
 酒場の女主人が驚いたように目を丸くしてこちらを見ている事に気づいた部下がノーマンに進注し、そしてすぐに彼女の名前と団長の愛馬の名が同じ事に気がつく。
「…あのご婦人は確か……」
 下戸故に酒場に出入りする事があまり無いノーマンだが、
「酒場のご主人、レオナ殿かと…」
 酒を好む者にとっては絶対的な存在であるとして、少なからず認知しているようだった。
「何…」
 愛馬と同じ名前をもつ女主人の姿を見止め、ノーマンは馬から手を離して居住まいを正した。
「ごきげんよう。青い騎士団長殿」
 カウンターで見せる笑みをたたえながら歩み寄るレオナにノーマンが几帳面に一礼すると、部下達もそれに倣い頭を垂れた。
 一糸乱れぬ堅真な態礼にレオナは若干の驚きと照れを隠しつつ、軽く膝を折って礼を返す。
 堅くて真面目な騎士団。
 若い騎士達は一糸乱れぬ忠誠心を騎士団長に捧げ、また騎士団以外の人間にも儀礼と敬意をもって接する。
「これはとんだご無礼を。レオナ殿」
 知らなかったとはいえ、一人の女性を呼び捨ててしまった非礼を、ノーマンは詫びる。
「いいのよ。それより、良い馬ね。私と同じ名前で呼んでもらって、光栄だわ」
 ノーマンに寄り添うように立つその馬は、主人と同じ黒いに近い栗毛の牝馬だ。陽光を受けてかがやく黒栗毛は艶が美しく波光を発している。
 牝馬独特の優雅さと、その主人に似つかわしい雄々しさも併せ持っている。
 素人目にも、名馬と分かった。
「ありがとうございます」
 愛馬を誉めてもらった主人が、柔らかく笑んだ。常に生真面目に口を堅く結んだ表情しか見かけない彼の笑顔に、遠くから眺めていた人間達も目を丸くする。
「貴方専属の恋人なの?」
 騎士にとって馬は自らの半身。
 ここでの「恋人」は、馬を差した。
「ええ。号名はマリーレイティオーナです。私はずっとレオナという愛称で呼んでおります」
「お付き合いは長いのかしら」
「隊長時代からですから…もう五年以上です。幾度も命を助けてもらい、武勲を私に齎してくれました」
 主人が誉めてくれているのを感じ取ったのだろうか。愛馬レオナがノーマンの頬に鼻面を寄せてブルブルと鳴いた。純真な黒い瞳が全幅の信頼と愛情を、主人に向けている。
「よしよし、レオナ」とノーマンが顔を撫でてやる。無意識に再び名前を呼んだことには気づいていないようだ。
 一瞬、レオナの心臓が大きく鼓動した。
(あれと同じ仕草と顔で女の子に接してやれば、落ちない娘はいないだろうに)
 思いがけず自らの胸奥で起こった動揺に、レオナは苦笑を漏らす。
 馬の名前であったとはいえ、見てくれの良い男に名前を呼ばれるのは悪い気はしない。
 真面目すぎる故に悪友たちが密かに「朴念仁」と揶揄していたが、彼がそうであったのは他の男連中にとっては幸いと言えそうだ。
「しかし、やはり名前の呼び方に留意するように致します」
 真面目な彼らしい言葉。
「いいわよ。私は気にしないわ」
 さばさばとした口調でレオナはそう笑ったが、それからノーマンが極力、騎士団以外の人間の耳に届く所で愛馬の名を呼ばなくなったのを、後になってレオナは兵士や騎士達の噂で聞く事になる。



 魔物の群に占拠された衛星村の奪回に、キース率いる虎騎士の一隊と、ノーマン率いる獅子騎士の一隊、第二隊長ラングレー率いる練狼騎士団一隊が赴いた。
 かつて獣と同義であった魔物達はいまや一部の知能が高い種族が台頭し、強力な力と魔力や生命力のみならず、組織力まで増している。騎士団にとって余程、人間相手の戦争をするよりも厄介だった。
 視察隊がロストリアを経ちニ週間。
 ある夕刻、留守番と待機を任された騎士達の姿がレオナの酒場にあった。
「レオナの姐さん、そういえばあの青い騎士団長さんの恋人と同じ名前だって?」
「あら。もうそんなに噂が広がっているの?」
「狭い城内だからな。何でもその恋人も、黒髪が美しい美人だとか?」
「ふふ…まあね」
 珍しくカウンターではなく、騎士達と向かい合う相席に座って、レオナはグラスに赤い液体を揺らす。
「とっても素直で、キスが上手な可愛い恋人よ」
「へぇ…意外だなぁ」
 あの真面目な騎士団長の恋人が?と若い騎士は青い瞳を丸くする。どうやらその恋人が騎馬である事までは知らないようだ。
 噂の末端とはそんなものだろうと、レオナの赤い唇が苦笑を象る。イタズラ心に火が点ったようだ。
「私も見たことがあるのだけど、あの二人の熱愛ぶりにはそれはもう、見てるこちらが火照っちゃうわ」
 酒で紅潮した頬に手を添えたレオナの視線が、若干の恍惚感を漂わせる。妖艶な色香に若い騎士達はグラスを傾けかけた手を止めた。
「人が見ている前で堂々と頬を寄せ合ってキスをして…。あてられちゃうったら無いのよ。彼女の全幅の愛情は全てあの獅子騎士団長さんに注がれて、獅子騎士団長さんの全幅の信頼は全てあの可愛い恋人に向けられているの」
 そこへ、ちょうど背後を通りかかったのが獅子騎士団の第三隊長レセスト。。レオナの良き酒呑み友人の一人である。目を真ん丸くする若い騎士達の表情に状況を読み取ったようで、レオナの隣に空いた席に軽く腰掛けた。
「ああ、ノーマン団長の恋人なぁ。羨ましい美人だぜ」
「あら、レセストも黒髪の美人がお好み?」
 レオナが上手い具合に呼吸を合わせる。
「まあな。しっかしあの二人、本当にお似合いだぜ。こう、体を寄せ合って日当たりの良い場所でくつろいでるところなんか、羨ましいねぇ…」
「俺は水辺でみかけた事があったぜ」
 そこに更にレセストの友人が加わってきた。
「二人してずぶ濡れになってはしゃいでよ。肌と肌のふれあいがこれまたお熱かったぜ」
「キース様が嫉妬するほどの仲なんですよね」
 いつのまにかメイドまで席に加わる。
「ねー」と若い騎士達を除く皆が声を合わせて頷き合う。
「えぇ、待って下さいよ。皆な団長の恋人を見たことがあるのですか?同じ所で暮らしていてなんで俺だけ…」
 慌てたように若い騎士が苦笑する。
 酒場中の人間が自分の鈍感さを笑っているように思えて仕方がないのだ。
「アナタが鈍いのよ」
 レオナがグラスを持った手で騎士の鼻先を指差す。
「騎士様の最愛の恋人といえば……。分らない?」
「ん?それって……」
 口をつけかけたグラスを一旦離して、騎士は目を細める。
「あ~あ、もうばらしちゃうの?レオナさん」
 メイドの小悪魔的な笑み。若い騎士はが「ああ、」と完全に気がついたようだ。
「黒髪の美女って……黒毛の雌馬のことですか!?」
 あたり~
 と女性陣の声が揃ったところで、騙されていた騎士達は肩を竦めた。
 酒場に、やんわりと笑いが広がった。



 そんな酒場から騎士宿舎中に広がる平和なの空気は、翌日に一変する事となる。



「早く!リュー先生を!!」
 城の凱旋門口から響いてきた第一声は、それだった。
 酒場にいたレオナにも、その声は届いた。
 喧騒に似た人間のざわめきと、興奮した馬の嘶きとが混在した音が城を緊張感に包み込む。
 隊が戻ってきたのだ。

―リュー先生を

 その言葉を持つ意味は瞭然だ。
 リューとは軍医長の名。
 それでなくてもここまで漂ってくる錆び臭い匂いが、戻ってきた彼らの様子を表している。
「……」
 悪寒を感じながらレオナが門の方を覗くと、一層に強い錆匂が鼻腔をついた。不快に眉根を顰めながらも眼を凝らして窺った光景は、レオナの双眸を驚動に見開かせた。
「水と、それから清潔な布を!重傷者はこっちに運べ!」
「はい!」
 凱旋門口には、出迎えた看護士らに指示を送るリュー軍医長と慌てた様子で指示に沿って動く若い騎士や兵士達の姿が流れて行く。
 上階から駆け下りてきた待機組の騎士らもその場に加わり、怪我人の振り分けを始める。人の流れをざっと見渡すと、どうやら最も深手を負ったのは獅子騎士団の面々のようだ。彼らはよく戦任務において「決行部隊」「突撃隊」「殿隊」など、いわゆる最も実戦的な役割を担う事がほとんどだ。それは慣習として続く性質をそのまま活かす軍師らの計らいであり、最も正しく効率的な戦略だ。
 戦場と無縁である筈の、酒場の主人のレオナでさえ、何度も彼らが満身創痍となって帰城する姿を目撃していた。
 そして今も、最後に城へと足を踏み入れたのは、虎騎士団長キースに肩を担がれた獅子騎士団長ノーマン。
「怪我の具合は」
 歩み寄るリュー軍医長が両騎士団長に声をかけるが、
「部下を先に………」
 とノーマンがやんわりと退けた。
「強がりならば訊き入れませぬぞ」
 短く低声でそれを更に拒否したリューが無傷な騎士を呼びつけた。
 指先でようやく意識を摘み上げたように朦朧とした状態のノーマンは、レオナの眼からも彼が立っているのも苦痛である様子が理解できた。
「ノーマン様を集中治療室へ」
 リューはそう指示を残すと次なる指示を出すために踵を返した。まるでそれを合図にしたように途端、ノーマンの体が傾き、重さに耐えきれずキースもろともその場に崩れ落ちた。
 慌しい凱旋口が、さらに人の悲鳴で埋め尽くされる。


 散々な有様で凱旋したにも関わらず、奇跡的に死者はいなかったという。参謀総会にもたらされた報告は人の口を伝って翌々日には騎士団中に広がっていた。
 理由はやはり、退去の際の獅子騎士による決死の殿(しんがり)のおかげだと、キースは言う。
「それもそうだけど、あんたもよく頑張ったじゃないか」
「………」
 レオナの言葉に、キースはだが浮かぬ顔で俯く。
 人気の無い酒場。カウンターの向こうにはレオナ、そして客席にはキースと虎獅子団副長ユベルの姿があった。
 無人の時間を見計らい、キースは時々副長を伴い酒場にやってくる。同期の友人であるノーマンが下戸なので、もっぱら酒の相手は副長のユベルだった。
 ユベルもまた同期生の一人であり気心が知れている人間。
「どうしたのさ?」
 レオナは静かに問いかけた。薄暗い酒場に沈黙が再び走るが、答えを急かさないで、静かに待つ。
「報告では『死者無し』なんだが…」
 ぽつりぽつりと、キースが切り出す。
「レオナが…」
「え………」
 突然自分の名前が出てきてレオナの胸郭が大きく鼓動した。
「あ、申し訳ない。ノーマンの騎馬が」
 慌てて言い直したキースの言葉に、黒いたてがみを思い浮かべて「ああ、」と納得したものの、レオナは不吉な予感に眉を顰めかけた。
「奇襲をかけて退却しようとした時に」
 俯いたまま彼は、オレンジ色のグラスを両手で握り締めていた。
 氷がカラカラと音を立てていた。
「軍の真横に偶然でくわした群に脇をつかれたんです。それで、虎騎士団の一隊が狙われ」
 順を追って話さなければ、彼自身が混乱してしまうのだろう。
 それを感じ取りレオナはただ無言で相槌を打った。
「そこに、ノーマン一隊が駆けつけ……壁となって時間をかせいでくれた…」
 言葉が短く途切れる。
「文字通り体当たりで隊を守ろうとしてノーマンが落馬して…」
「………」
「矢が、雨のように降り注いだ…」
 リューの話によれば
 獅子騎士団長最愛の恋人は、
 彼を矢雨から庇い倒れたという。
 半ば意識を失ったままのノーマンを無理矢理に引きずってキースが退却指示を出した。

 彼の最愛の恋人を矢雨の中に置き去りにして。

「………」
 話が進むにつれ、レオナは自分の背筋に汗が伝っているのが感じられた。
 自分と同じ名を持つ馬。
 おそらくもう、死んでいるだろう。
 戦場にて騎馬を亡くす事は珍しい事ではない。
 戦闘が一つ終わるたびに作成される報告書には、消費した武器、薬品を記すと同じ書類に、失った騎馬数も記入される。戦略上、騎馬は戦闘の道具。
 だが、騎士の精神にとってそれは最愛の恋人。
「…………」
 それでなくとも獅子騎士団長は「騎士」を体現したような男だ。その悲しみは幾ばくか。

「そっか…レオナは………」
 キースとユベルが去った後、酒場を一旦閉めてレオナは外に出た。
 風にあたりたい。
 今日はまだ酒を飲んでいないはずなのに、頬が火照って仕方が無いのだ。
 外は若干、太陽が傾きかけて陰りを帯び始めている。
 あと半刻もすれば酒場を空ける時間。それまで頭を冷やしていよう。
 自分と同じ名前を持つ。それだけで随分とあの馬に愛着を覚えたようだ。
 降れた頬の温もりや柔らかいたてがみ、そして優しく美しい瞳が思い出される。
 そして、その隣に常に在った、青い騎士服の男。
「………」
 一際強い風がふきつけた。
 湖に接したこの本拠地に、夕刻になると必ず訪れる肌寒い空風だ。
 レオナの肩に羽織っていた手編みのケープが、肩を離れて飛んだ。
「っあ……」
 慌ててそれを追いかける。
 人気のいない場所を歩いていた為、拾ってくれる者もなくケープは気ままにどこまでも飛ばされた。
「まったく…」
 ようやくケープを捕まえて我に返ると、外へと続く裏門付近まで来ていた。
 今自分が立っているところから右へと折れればそこは、黒騎馬レオナと会った場所。
 しばらくは、近寄りたくない。
 踵を返そうとして、その方から人の声がする事に気がついた。
 人の声に重なり、蹄の音も複数聞こえる。
「………」
 帰ろうとする心の一方で、強く好奇心が惹かれた。
 拾ったケープの砂埃を払うのも忘れて握り締め、レオナは声の方へと歩を進めた。
 そこは騎士舎裏口。
 鮮やかな赤い騎士服達が複数、そこにいた。
 虎騎士団長キースの姿も、そこにある。
 馬にのって今しがた帰城した虎騎士を出迎えているのだ。
「お帰り。悪かったな。面倒な事を頼んで」
「とんでもございません」
 キースの出迎えの言葉に、騎士達は次々と馬を下りてかしこまった礼をする。その一番前に達キースと向き合った一人の騎士が、手に握っていた何かをキースに手渡した。
 薄闇が影となり、レオナの位置からはよく見えない。
「やはり、もう駄目だったか…」
「……真に残念ですが」
 ぽつりと、騎士達の声が寂しげに漏れる。
 騎士達は静かに俯く。
 まるでそれは、黙祷。
 傾いた陽が落とす陰の中で、騎士達のシルエットが幻想的に浮かんだ。

「何をしている?」

 横からかかった低い声。
 キースを含め騎士達が一斉に顔を上げた。
「ノーマン…」
「ノーマン様!」
 レオナの位置からは反対方向の折れ角から姿を現したのは、ノーマンだった。
 常にきっちり制服を着込んだ姿ではなく、上半身の素肌に包帯をサラシのように巻きつけ、片手が分厚く包帯で包まれている為に長い団長服の上着を肩に羽織っている。
 臥せった床からようやく這い出した、といった風で無事な片手を壁について体を支えて、僅かに肩で息をしていた。
「大人しく寝ていろと言ったろう」
 部下から受け取った「何か」を咄嗟に隠すようにして再び部下に手渡し、キースがノーマンに駆け寄る。
「窓から見えた。…どこから帰ってきたんだ」
 キースの背後で戸惑った面持ちの騎士達は、神妙に瞳を伏せた。
 やれやれ、と大きく溜息を漏らしたキース。
「……話したら、大人しく寝てくれるかい?」
 ノーマンから離れて部下の元に歩みより、一度つき返した「何か」を再び受け取った。
「キース様」とためらう騎士に一つ頷き返してキースはノーマンに手を出すように言った。
 躊躇いがちに伸ばされたノーマンの手に、キースは「それ」を静かに置いた。
「これ……」
「君の恋人を連れて帰ってきたよ。ノーマン」
 それは、千切れた手綱。
「……………」
 暗がりで眼を凝らしてノーマンはその薄汚れてしまった手綱を指先で探る。指先が、刺繍に辿りつく。恋人の名が、赤い絹糸で縫い込まれている。



 LEONA と。



「……………」
 千切れ、紐片と化した手綱を、ノーマンの黒い瞳がこぼれるくらいに見開かれて見つめる。強く唇をかみ締めて。
 深く俯いた黒髪に、キースの声がかかる。
「名前を、呼んでおやりよ」
「…………」
 最期の瞬間に、呼んでやれなかった名前を。
 せめてもの供養に。
「レオ…ナ……」
 か細い声が、搾り出される。
 図体の大きい彼からは想像も出来ぬ、脆弱な声だ。
 掠れ、震える。
(……………)
 壁際に身を隠したレオナの心臓が、再び強く波打った。
 一度の鼓動に留まらず、徐々に強さを増して胸郭を打ち始める。
「レオナ………レオナ…レオナ」
 手綱を握り締めて獅子騎士団長は膝をつく。
 咄嗟に支えるようにして、キースが腕に手をそえて共に膝をついた。赤い騎士服の腕に包まれるように蹲る影。
 肩が震えるのが、遠目からも分った。
「レオナ、レオナ……レオ……ナ」
 何度目かに呼んだ名がついには途切れ、
「っぅあああぁああっ!!」
「ノーマン…っ」
 まるで狂ったように一声吼えた。
 立ち並ぶ騎士達がびくりと肩を振るわせる。
 蹲った黒髪の頭を引き寄せて、キースが抱きしめた。
「レオナ………」
 あとの言葉は、ノーマンの声にならぬ嗚咽に飲み込まれた。
(…………止まれ…とまれったら…)
 名を呼ばれるたびに、レオナは息苦しさが増していく感覚に襲われる。強くなる鼓動が止まる様子もなく、冷たい夕風の中に立っていながら体温が上昇する一方だ。
 馬の名と分っていながら、
 あのように切なく名前を呼ばれては、
 どうする事もできなくなってしまう。
 ケープを掴む両手で胸を抑える。
 肌越しにも、強い鼓動は感じられた。
 夕闇に沈もうとする風景は、蹲る二つの人影と、そしてそれを見守る数人の従順な騎士達の影。
 陳腐なロマンを語った小説の挿絵に、似たようなものがあったような気がする。一笑に払して読み飛ばしたページだった。
 それとは違う、何と美しく悲しい光景か。
「………っ」
 固く閉じた目をようやくの気力で開けると、
 ノーマンの体を抱き寄せるキースが、レオナを見ていた。
(…………キース)
 その視線に縫いとめられて、動けなくなる。 

 ―今だけは、許してやって下さい。

 夕闇に照らされた琥珀色の両目が、そう語っているように見えた。
 レオナは頷くことも首を横に振ることもできず、出来ることはただ、いつものように口端に僅かな笑みを作るしかない。
 「いつもの」ように。
「…………」
 キースは満足したように、悲しく微笑んだ。





 レオナ。

 それは美しい黒髪の恋人の名前。





END

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2006.07.06.Thu/15:37
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Author:北野ふゆ子
> 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。 得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。

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