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  朝陽 



 何度も、何度も、

 柔らかい手がイルカの髪を梳き、頭を撫でる。

 頬に添えられた優しい手は、

 体中に染み込む温もりを与えてくれる。



   イルカ……



 久しぶりに

 母親が夢に出てきた。



「ん・・・…母さ…」

 柔らかい。

 顔を、柔らかく暖かい何かが包み込んでいる。

 甘い匂い

 つい心地良くて、そこに顔を埋めたまま、朝陽の中でまどろむ。

 薄桃色が射した白。

 寝具の清潔な白とは違う、

 優しい色が目に入った。

「・・・・・・・・・…?」

 視界を妨げるその色に、イルカは焦点の定まらない目を見開いた。

 暖かな寝具に包まれ、心地良い朝陽を浴びて目覚めた朝。

「…何だ・・・…」

 左手をそこに、伸ばしてみる。

 触れたそこは、柔らかく、暖かく、そして触れたと同時に

「ぁん・・・…」

 微かな声がした。

「!!!!???」

 非日常的な音にイルカの意識は急激に覚醒へと向かう。

 柔らかな寝具から身を起こし、何が起こったのか確認すべくそこに目をやると、





 見覚えのある女が、ほぼ全裸でそこにいた。

 心地良さそうに寝具に包まれて眠っていた。

 つまり、



 イルカの隣で。



 そしてそれはつまり、

 先ほど触れたのは



「・・・・・・…」

 自分の掌を見つめて、イルカは寸詰まりを起こした思考回路をようやく動かして計算する。



 そう、先ほど自分がふれたのは、

 女の白く、豊かな ‐‐‐‐





「*+&%$#!@!!!!???」



 

 その朝、

 意味不明な叫びが、朝を告げる鳥の声に混じって里中に響いた。







     朝陽





「何よ朝から騒々しいわね…」

 その叫びにようやく目を覚ました女は、長い黒髪をおざなりに手で梳きながら体を起こした。

 寝具がずれ、白い裸の上半身が露となる。

「ちょっ!く、そん…あーもうっ!」

 またもや意味不明な言葉を羅列させながらイルカは枕を女に押し付けてそれを隠すと、

 それからようやく、自分も裸に近い姿である事に再び顔を青くした。

「・…・・…」

 黒髪の女は、陳腐な人形劇でも観劇するようにすました面持ちで枕を抱いたまま、イルカが自己完結するのを待つ。

 やがて、幾分冷静さを取り戻したのか、イルカは肩で大きく深呼吸すると背中を向けたまま女に言葉を向けた。

「あの、紅先生・・・……一体何が起こったのでしょうか……」

 後姿だけでも、かなりイルカが赤面している事が分かる。

 背中に残っている大きな傷跡が、赤みを帯びているのだ。

「上忍と話をするのに背中を向けたままでいいのかしら?」

 苦笑したいのを抑え、わざと平坦な口調で黒髪の女、夕日紅は短く言い放った。

「え、あ、はい、申し訳無…」

 悲しいかな中忍のさが。

 生真面目なイルカは寝台の上に正座する形で勢いよく紅を振り向く。

 そこには、枕をどかしてわざと胸元を露にした紅が…。

「ぎゃーーっ!!」

 壊れた人形のように、イルカは叫びながらまた勢いよく背中を向ける。

「女の胸を見て『ぎゃー』は無いんじゃない?傷つくわね…」

「す、スミマセン…」

 さすがに今度は振り向かないが、イルカはよりいっそうに顔を紅潮させて肩を窄めた。

「あ、あの…何か着て下さいませんか……」

 消え入りそうな声でそう懇願する中忍に、紅は気の毒とさえ思ってしまう。

「仕方無いわね」と苦笑して、壁に掛かっていた浴衣を羽織った。

「ほら、説明してあげるからこっち向きなさいよ」

 それでも半信半疑なのか、イルカは恐る恐る紅を振り向く。

 薄青の浴衣を纏った紅に、固まった表情に安堵を浮かべてイルカは振り返った。だが、その表情はすぐに緊張を帯びる。

「ん~…」

 まるでカカシがよくそうするように、紅は手を顎の下に添えて天井を見上げた。

 説明するための言葉を選んでいるのか、

 それとも悪巧みを計算しているのか、イルカには判りかねた。



「ま、後々問題になるような事はしてないし、されてないから、いいんじゃないかしら?」



「は?」



 『説明』はそれで終わりだった。



「それ、はどういう……?」

 整理がつかない面持ちでイルカは両目を細める。

「言葉の通りよ」

 よっこいしょ、と億劫そうな声と共に紅は寝台から腰を上げた。

「洗面所借りるわね」

「はぁ、どうぞ……」

 寝台から降りる際、紅の白い両足が浴衣からさらけ出る。一向に気にする様子もなく彼女は大股で洗面所の方へと消えていった。

「何で洗面所の場所を知っているんだろうか…」

 というイルカの疑問を置き去りにしたまま。

 そのうち、水が流れる音が山彦のように聞こえ始めた。我に帰ったイルカは慌てて自分も寝台から降りて、身に付ける物を探した。

 見れば、昨日着ていた黒の上着が、寝台近くの椅子に掛けられていた。無造作というよりは、形を整えて。

 触れてみると、それはわずかに湿り気を帯びていた。

「……………?」

 よく部屋を見渡してみれば、ところどころ床に濡れ跡が残っていた。

 窓から外をのぞけば、木々の葉に滴る露が、朝日を浴びて輝いている。

「雨が降ったのか…?」

 

 昨日。

 昨晩。

 学校で残業をして、家に帰る途中。

 人通りが少なくなった道に入って…

 

 そう、

 それから、記憶が無い。

 雨が降ったことさえ。

 学校を出る時点までは、紅がいなかった事だけは確かなのだ。



「っつ………」

 眩しい朝日に両目端を細めたとき、頬に僅かな痛みを感じてイルカは奥歯を噛んだ。

 手を頬に当てれば、先ほどまで気づかなかったが、ばんそうこうが張られていた。

 ちくりと、痛む。その手の甲にも、同じく白い包帯が。

「あれ~……?」

 まったく覚えの無い、傷の手当てがされているのである。

 それに気づくと、とたんに体中に痛みを感じ始めた。

 足、腹、胸、腕。

 心なしか、息苦しい。

「……」

「あまり思いつめない方が良いわよ?」

 顔をあげれば、洗面所から出てきた紅がそこにいた。

 よく見慣れた装束に着替えたいでたち。

「あ、いや、でも……」

 今浮かんでいた疑問符を隅においやって、イルカは慌てて上着を掴んで首と腕を通す。少し、冷たい。

乱れた寝具はそのままに、イルカは帰り支度をする紅の背中に言葉をかける。

「でも、何?」

「……俺、何も覚えていなくて……何か失礼な事をしてしまったのではないかと…」

「私が大丈夫だって言ってるんだから、大丈夫なのよ」

 教師が生徒に怒るように、紅は伏せがちのイルカの顔に向き直った。

「それとも、もし何かあったとしたら、カカシに顔向け出来ないとか?操立ててるんでしょ?アイツに」



「はい?」



 素っ頓狂な声と共に、イルカの思考が再び止まったようだ。

「冗談よ、馬鹿ね。仲が良いのは知ってるけどさ」

 紅は、鈴が転がるような笑いを口端に乗せる。

 頭上に疑問符を幾つも浮かばせながら、苦笑と共に首をかしげるイルカの様子を眺めながら、

(あ~ら可哀相に。こりゃ、あいつの一方的な片思いね…)

 と紅は、今は長期任務で里を離れている銀髪の同僚に、少しだけ同情するのだった。

 冗談も通じないとは、これは完全なる天然的鈍感である。

 上忍であるはたけカカシと中忍であるうみのイルカが、互いの玄関を跨ぎあう仲であるのは、里内で有名な話だった。

 絶対的な身分を越えた、友人同士。

 男の友情。

 忍び社会では少ない、「良い話」の一つである。



 ただ、そう思っているのは中忍うみのだけで。



 銀髪の上忍に別の心情がある事は、彼を知る近しい者の間では明らかなことだった。

 たとえばこのくの一、夕日紅や猿飛アスマなどは。



「ま、とにかく気にする事は無いって事。忘れたければ、忘れていいのよ」

 場と状況に先ほどから混乱しっぱなしのイルカを少し哀れに思いつつ、早めに話を切り上げてやろうと紅は再びイルカに背を向けた。

「じゃあね」

「あ、あの…っ」

 再び、その背にかかる声。

 紅は振り返らず、「何?」と一言だけ答えた。

「御飯…」

「?」

 今度は紅が、頭上に疑問符を浮かべてイルカを振り返った。

 そこには、無理に落ち着きを取り戻した面持ちではにかむイルカの微笑があった。

 寝室の隣、台所の方を指差している。

「朝御飯……、召し上がっていきませんか?」

「……」

「これから、ご出勤でしょう?お互い」

 イルカの提案にしばし、不意を突かれたように大きな両目を数度瞬きさせると、

 紅も軽い笑い声を漏らしてうなずいた。

「じゃあ、お言葉に甘えようかしら」

 まだわずかに湿っている忍装束。

 雨独特の青臭い香りが染みている。



 服の代えをとりに行くのは、朝食を馳走になってからでも遅くはないなと、

 紅は促される方へと歩を進めた。











 香ばしい味噌汁に、素朴な味付けの煮物、丁寧に焼かれた魚に、うまい具合に炊かれた白米。

 誠実さが伝わってくるような、質素で、だが美味い朝食に空腹を満たした紅は、

 何度も頭を下げるイルカに見送られてうみの家を後にした。

「今日は、有給でもとって休みなさい」と忠告して。

 

「カカシが足繁く通いたくなる筈よねぇ…」

 うみの家から真っ直ぐに伸びた、両側を田畑に挟まれた道を、朝日に向かって歩く。

 まだ口の中に残る煮物の味に、時折唇をなめながら。

 繁華街から離れた閑静な場所。

 涼しい朝の風の中で紅は一人ごちていた。

「あんな美味しい『家庭料理』が食べられるんだから…」

 私も通っちゃおうかな。

 銀髪の同僚に対する意地悪を一つ思いつき、肩で小さく笑う。

「それにしても……」

 また、口の中で煮物の香りがした。

 整った、落ち着いた味だった。



-風邪ひくわよ



「…………」

 首筋を通る風に、身震いする。

 そういえば昨晩は、雨と一緒に風も冷たかった。

 

昨晩、

 下忍達の、遅くなった任務報告を終えて、家に向かう途中で雨に降られた。

 繁華街から外れた、人気の無い道端に、座り込む人影を見つけて足を止める。

 全身を濡らして、黒い髪からは水が滴り、

 でも動かない人影。

 風邪ひくわよ

 と声をかけても、返事をしない人影。



 しゃがみこんで顔を覗き込む。

 雨に混ざって、赤い水筋…。

「ちょっと…ねぇ!」

 肩を揺すってみると、力の抜けた首ががくんと垂れた。

 崩れ落ちる体を支えると、重さに耐え切れず思わず尻餅をついた。

 懸命にその体を抱き起こすと、雨と泥と血で濡れる男の顔があらわに見えた。

 見覚えのある顔に、驚く。

「イルカ…先生…?」

 語尾に疑問符が伴ったのは、そこで紅が目にした面持ちが、あまりにも日常的に学校で見かけるイルカのものと異なっていたから。

 雨に冷えて青ざめた顔。

 頬や額には、未だ出血する傷が見受けられ、

 意識が朦朧としているその面持ちは、苦痛というより悲痛を浮かべている。

「私刑…………」

 殺さない程度に体中に付けられた傷や痣に、眉根をひそめる。

 

 どうしてなのか…

 この誠実を絵に描いた人間が、里内でこのような傷を負う事になるのか。

 とにかく、

「しっかり…っ!」

 この男を救わねばならない。

 わだかまる疑問を脱ぎ捨て、紅は男の腕と肩を担いで立たせた。

 チャクラを練り、細い両腕に力を送り込む。

 女の腕で支えるには重い男の体が、軽くなる。

 傘もなく、雨と泥で濡れながら、紅はイルカを連れて長い家路を辿った。

 以前、一度だけ事務的な用件で立ち寄った事のあるイルカの家へ。





 それから……















「あら。生きてたの」

 イルカ宅から一度家に戻り、それから事務的な用事を持って火影邸に行くと、

そこには先客として銀髪の同僚がいた。

 実務室前の廊下には、順番待ちをしているその他の上忍らの姿や中忍の姿も見受けられた。

 人の気配で雑然とした空気と厳格な空気が混在する場。

「ずいぶんな挨拶だな」

 眠たそうな半開きの目で、銀髪の同僚、はたけカカシは拗ねる振りをした。

「あんたなんか、いつどこで野垂れ死んでも驚かないわよ。いつ帰ってきたの?今朝?」

 同じ調子で紅も、ふふんと笑って言い返す。

「うわ、酷い。ま、別に俺はお前に労って貰おうとは思ってないしね~」

「そうでしょうとも。煮物が上手に作れる『オトモダチ』の方が良いのよね」

「その通り…」

 児戯より低質な会話を数度交わす上忍二人。

 紅の言葉にカカシはふと、言葉を止めた。覆面の下で、確認するように「ん?」と呟く。

「って何でお前がイルカ先生が料理が得意な事を知ってるんだ?」

 結局、出た言葉も児戯を出ず。

 やれやれと肩をすくめて紅は大御なため息を吐き出した。

「朝食、ご馳走になっちゃった☆」

「朝食!?」

 紅の言葉に驚いたのは、何もカカシだけでは無かったようだ。

 その場にいた、両者の会話をふと小耳に挟んだ面々がいずれも、声に出さねど吃驚を浮かべた面持ちで一斉に振り向いたのだ。

「まさかお前…」

 急に変わった空気が、紅の悪戯心に火をつけた。

 人差し指を赤い唇に当てて、悪魔の笑みをたたえる。

「あ、さ、が、え、り。しちゃった」



 空気にヒビが入る音が、

 聞こえた。







「ああうざってぇ」

 はたけカカシと共に長期任務に出ていた猿飛アスマは、帰省したその日に早々、飲みにつき合わされていた。

 上等な酒屋の、上忍がよく使用する個室。

 広い室内で、広い卓を挟んで向き合う上忍二人。

 一方のアスマは辟易した様子で酒を煽っている。

 そして問題のカカシは、なんとも機嫌の悪い様子。

「だいたい何だてめぇは。帰還したら中忍センセイの煮物をご馳走になりに行くんだとかなんとか……転がり込みに行くような事をぬかしていやがったじゃねぇか」

 というアスマの言葉に、

「俺だって好んで髭なんかと疲れた体で酒を煽りたくはないね」

 というカカシの言葉。

 完全にとぐろ状態である。

「ガキじゃあるめぇし。ダチを女に寝取られたくらいでぐずぐず言ってんじゃねぇっつーの」

「あの魔女め………」

「それにしても」とアスマはカカシの言葉とは無関係に、酒を口に含みながらおざなりに切り出した。

「お前にしちゃ手が遅いなぁ。だから横取りされちまうんだぜ?」

 女に不自由した事が無いカカシの身のうちを知る腐れ縁のアスマは、ある意味感心したように鼻から長い息を吐いた。

「当たり前だ。どの面下げて言えるよ」

「ん?何を」



「俺はすっかり、信頼できるナルトの先生。気楽に話せる良い友人、だ……」



「…………」

 急に声調が落ちて落胆の色を見せるカカシ。

 猪口を持ったまま、そこにゆれる水面を見つめて俯く銀髪の腐れ友。滅多とみないその姿にさすがのアスマもかけるべき言葉を選んだ。

「でもお前はそれで楽しそうだよな?」

「まぁ…な」



 イルカ先生と話す事が楽しい。

 食事をともにするのが楽しい。

 ただなんとなく、彼の気配がする部屋に転がり込んで寝そべっているだけでも楽しい。



 存在そのものが、「好き」だ。

 証となる、触合いも、繋がりもいらない。

 ただ、いてくれれば良い。



「今が続くなら……俺は別に何も言えなくてもいいかな…とか思うんだ」

「そうか」

 銀髪に見え隠れするカカシの瞳に曇りが伺えない。

 アスマは納得したように一度ゆっくりとうなずいた。

 だが、

「………でも、魔女にだけはやりたくなかった…」

「あ~、そうかいそうかい」

 アスマは苦虫を潰して少しでも、カカシの事を殊勝なことを言うと感心した己を責める。

「そうやって愚図を言うくらいなら、言うこと言って、やるべき事はやるんだな」

 お前らしくもねぇ、と結んでアスマは空になった猪口に酒を注いだ。



 一晩経てば、酒の酔いと共に忘れてしまうだろう。

 そうたかを括って適当に受け流せば良い。

 つまみの豆を口の中にほうる。

 真似るようにして、カカシもうな垂れたまま一粒の豆に手を伸ばした。



 口の中に放った豆は、まだ青臭い味がした。







 ほろ苦い青豆の味が、

 翌朝になっても抜けない。











「イルカセンセ!」

 任務報告所に、明るい女の声がした。

 その声に名を呼ばれたイルカは、声の主に気がつくと笑顔で顔を上げた。

「紅先生」とその名を呼び返す。

「今日もご苦労さまです」

 下忍任務の報告書を受け取り、文字列に視線を落として筆を動かす。

 机越しにその様子を見下ろす紅は、柔らかな笑みを見せていた。

 

「…………」

 その二つ後ろに並んでいたナルト、サクラ、サスケは、これから提出する書類を片手に、珍しいものを見るような眼でその様子を眺めていた。

 カカシが長期任務から帰ってきてから数日が経っている。

 何故か最近、任務報告をやらされる。

「最近、紅先生とイルカ先生って仲いいんだなぁ」

 というナルトの小声にサクラは小首をかしげた。

「喧嘩でもしてるのかしら。カカシ先生と」

「ふーん……」

 おざなりなサスケの声が返る。

 三人の下忍達の前では、いつものように書類に書き込みをするイルカと、その傍らに立つ紅が時々言葉を投げかけている背中があった。



 書類を差し出した手は、見慣れた小さな手だった。

「ん?」

 とイルカが顔を上げると、元生徒が三人並んでいた。

 ご苦労様、と笑みと共に声をかけてから、イルカは素朴な疑問を口にする。

「今日もお前らが提出か?カカシ先生はお忙しいんだなぁ」

 汚い字で書き込まれた書類を見ながら、苦笑いと共に書き直してゆく。

 事務机の端に腰を下ろし、腕組みをしている紅。

 無言で四人の言葉を聞いていた。

「あれ?」

 筆を動かすイルカの手に、白い包帯が巻かれている事にナルトは声を上げた。

 腰を僅かにかがめてイルカの顔を覗き込んでみれば、頬には擦り傷などが残っていた。

「どうしたんだってばよ、それ」

「ん~?」

 ああ、これか、と傷のついた手の甲をひらりと動かして、イルカは苦笑した。

「イルカ先生、昔から野外実習のたびにドロドロになったり怪我してたもんね」

 小さなため息がサクラの口からこぼれる。

 言うことを聞かない子供を追う内、知らぬうちに常に小さな傷をこさえている。

 傷と泥と汗でいつもどこか汚れていたが、

「先生らしいってば」

 というナルトの言葉どおりだと、サクラもサスケも思うのだ。

「………」

 子供たちの言葉を耳にしながら、紅は事務机から離れて、長いすに移った。

 どっかと腰をおろして腕を組む。



 そして相変わらず無言のまま。





 ナルト達が帰っていく頃には、報告所から人気もほとんど消えていた。

 報告所中央に並ぶ長いすに背中を預けて本に目を通していた紅は、人気が薄くなった事に気づいて顔を上げた。

「ねえ、イルカ先生」

「何ですか?」

 机周りを片付けながら、耳に心地良い低く起伏の無い紅の声を聞いていた。

「最近、カカシと会わない?」

 ふと手を止めて、イルカは顔を上げた。

 逆光のために、細かい表情は読み取れないが、イルカは軽く肩をすくめる仕草と共に首をかしげている。

「そういえば、そうですね」と思い出すように言う。

「以前はよく遊びに来られてたんですが。でも長い任務に出る、というお話は聞いていたので…きっとお疲れなんでしょうね」

「ふうん…」

「でも、ちゃんとナルト達の面倒はいつも通りに見て下さっているみたいで、安心していますよ」

「ふうん…」

 一つ返事をするたびに、いぶかしげに眉根をひそめる紅。

 だが、イルカからも紅の顔は影につつまれており、気づくすべも無い。

「俺はもうこれで失礼しますが、紅先生はまだここで何か?」

 書類を束ねて抱え、出口に向かって歩き始めるイルカに、紅は長いすから腰を上げて小走りで追いかけた。

「ご一緒していいかしら」

「喜んで」



 自然な笑みと共に帰ってくる返事。

 曇りの無い声調。



 一縷の不安が胸によぎって、紅は唇を噛んだ。





 もう、数日前になる。

冷たい雨の夜。

 窓をたたく雨の音が、脳裏に浮かぶ。







 チャクラを使っているとはいえ、大の男一人を抱えて長い雨道を来るのは、さすがにしんどかった。

 濡れたイルカを連れて家の中に入り、寝室を探ってつれてゆく。

 すっかり水を含んだ上着を脱がせて、洗面所から引っ張り出してきた湿り取り布でぬぐった。



 体中についた傷や痣に触れぬよう、羽を扱うようにして。



 イルカの体を拭いたところで、紅は自分もしとどに濡れている事にようやく気づく。

 長く伸ばした黒髪は、まさに濡れ羽色となって水滴をしたたらせていた。

 白い装束も、水分を含んで肌に吸い付いている。

「私が風邪ひくじゃないのさ…」

 体を重くする衣服を脱ぎ捨てた。

 薄暗い部屋の中で、紅の白い体が幻のように浮かびあがる。

 裸体同然だが、どうせ誰も見てやしない。

 ましてや、イルカは意識も無い。

 身軽になってちょうど良いと、紅は再びイルカの元へ。

 寝台の脇に座らせていたイルカの脇下に手を添えて、寝台に寝かせるべく支えて持ち上げた。



 と…



「きゃっ!」

「っ…」

 くぐもった音が重なった。

 濡れた床で足を滑らせた紅が、イルカもろとも寝台に倒れこんだのだ。

 イルカを下敷きにした形。

「……ん………」

 呻き声に似た、イルカの声が漏れた。

 紅が慌てて寝台から体を起こすと、そこにはだが、何事も無かったように眠るイルカの面持ちがあるだけ。

 相変わらず、眉間には息苦しそうに皺が寄せられているが。

 それでもだいぶ、呼吸が規則正しくなっていた。

 時おり擦れた寝息がする。

「………まったく…」

 深いため息をついて、その傍らに腰を下ろした。

 半裸で寝台の上にて寝息を立てる男と、その傍らでほぼ全裸の女。

「場末の娼婦とろくでなしの男、とでもいった風かしら」

 上からイルカの寝顔を覗き込むと、寝台が二人分の体重に微かな安っぽい悲鳴を上げた。

 窓を打つ雨と、

 微かな寝息と、

 そして寝台がきしむ音。

 

「………傷の手当てをしなきゃね…」



 また寝台がきしむ音がした。

 薬箱を探してその場を立った紅の影が、薄暗い室内に伸びて、そしてゆれた。






月に一度、そこには花が飾られている。

毎月、ある決まった日に。



物を言わぬ石のそばに

物を言わぬ者達の名が刻まれた、そのそばに、

寄り添うように置かれた花束は、いつも白。



戦死者に手向けられた、真実の献花。



忘れ去られた墓石。



でも、里の誰もが知っていた。

時折見かけるたびにそこにある、



純白の花。



時にその白い花弁に、朱色の雫が散っていることも。



戦死者の、血の涙がそこに降り注いだのだと、ひそかなる噂もあった。

だけど、誰も口にしない。

声なき噂。



もうすぐ、

その献花の日。



「ホントに?」

「嘘じゃねぇよ!それが今日なんだって」

「14の日、日が沈みかける時間になると、幽霊が出て来るんだって」

「その幽霊が、あの汚い石碑に白い花を添えて消えるんだ」

「で、時々その白い花が、石碑が流した血の涙に濡れてるの」

 子供たちが、そんな噂話をしている。

 幼い子らが誰でも好む、怪談話。

 温和な里での生活の中での、ほんの児戯。

「……」

 任務報告書を、人気の無い中庭の木の上で書いていた紅は、真下から聞こえてきた子供たちの会話に筆記用具を動かす手を止めた。

 真上の木の上に、黒髪の上忍がいるとも知らず、子供たちは内緒話に盛り上がっている。

 少年二人、少女一人の三人組。

 おそらくは、下忍候補か。

(「白い花の幽霊」か……)

 知らず口端に笑みが漏れた。

 月に一度、そこに欠かさず献花する者がいる、という話は知っているが、

 十二年前の悲劇を知らぬ子供たちにとっては、あの石碑の存在自体が一種の怪談話のネタになるのだろう。

 大人らの目には「ただの物好き」「感傷屋」、という現実ではなく、

 子供たちには魅力的で神秘的な奇譚なのだろう。

「見に行こうぜ、今夜」

 仕切り屋な少年が、人差し指を天に翳した。

「幽霊が出たら、どうするの?」

 少し気の弱そうな少女が両肩を竦める。

「もちろん、捕まえてやるんだよ」

「でもそんな夜に勝手に里の外れに行ったりしたら…誰かに見つかったら怒られちゃうよ」

 慎重な少女の意見に、「まあな」と少年達は珍しく素直に一寸の理解を示した。

「特にイルカ先生に見つかったらなぁ……」

 苦笑いと共に少年二人は、顔を見合わせた。

 常習犯なのだろう。



(……あら)

 聞き知った名前の登場に、出掛かった紅の欠伸が引っ込んだ。



「拳骨で頭はたかれるだけじゃ済まないだろうなぁ…」

「本気で殴るんだもん、イルカ先生」

「それに、イルカ先生に怒られるとなんだか………」

「何?」

 内気そうな少女が、両手を胸元で結んで添える仕草をする。

 唇を軽く噛んで。

「ここら辺が、すごく痛いよ」

「…………………」



(……………)

 少女の言葉を聞きながら、紅は筆記用具を口先で加えて揺らしている。

 沈黙の合間を縫って、一陣の風が通り過ぎていった。



「み、見つからなきゃいいんだろ?大丈夫だって」

 沈黙を打ち破って、少年がこぶしを握る。

「そうだよ。それに俺達、忍者になるんだぜ?幽霊ぐらいで怖がってる場合じゃねぇよ」

「でも・・・」

 まだ不安を拭い去れない少女が、迷いを両眼にあらわしている。

「大丈夫!じゃあ今日、六時に藤門で待ち合わせな!」

 沈みかけた気持ちを奮い立たせながら、少年と少女たちはその場から離れて行った。



「…………」

 枝葉の間から顔を出し、気配が完全に遠ざかって行ったのを再確認する。

 音を立てず、紅が枝上から降り立った。

 子供たちの秘密会議の場所。

「幽霊探索ね……」

 そうして山へ原へと飛び出していった子供らを、泥まみれになりながら探し回る青年の姿が思い浮かんで来るようだ。

「教えといた方がいいかしら…一応」

 余計な節介だ。

 理解している。

 その場に直立したまま視線をくるりと一巡させて、最後に一つ溜息をつく。

 出した答えは、

「まあ、いっか…」

 記入を終えた報告書を手の中で丸めて、紅はその場から歩を進めた。



 通り過ぎた背後に、また風が通り過ぎる。







 報告所にも、学校にも、イルカの姿は無かった。

「海野先生なら、帰られましたよ?」

「ふうん、そう……」

 それは残念、と語尾に零して紅は目の前の受付員に書類を手渡した。

「いつもは夕方過ぎ、夜近くまで残っている仕事の虫なんですが…時折、ぽっと穴が空いたみたいに早く帰る時がありましてね」

「ふうん、そう……」

 受付員の話を聞きながらも紅の返事は明後日を向いている。

 「夕日上忍の朝帰り発言」を知っていた受付員は、意外だとばかりに横目で紅を一瞥した。

「いないなら仕方無いわねぇ…」

 報告所を出て、後は帰るだけとなった。

 沈みかけた太陽が、今は空を藍色に照らしている。

 受付所の方から、紅を追い越してゆく下忍の子供たちの薄い影が、長く長く、尾を引いていた。

 この時間帯を、魔が通り過ぎる時間、禍いの起る時刻、「逢魔ヶ時」という。

「禍い…」

 目の前を掛けてゆく、遠ざかっていく見知らぬ子供たちの背中を眺めてふと、不安にかられた。



-六時に藤門で待ち合わせな!



「……」

 振り返って時計等を見上げる。

 六時、五分前。



 私の足なら、間に合う。

 ちょっと様子を見てから帰っても遅くない。



 この湧き上がった感覚を、信じるならば…。



「………」

 次の瞬間、紅の姿はそこから消えていた。









 藤門。

 木の葉には七色門とよばれる門がある。

 朱門、烏門、空門、土門、金門、銀門、そして藤門。

 火影岩前の広場から七方向に伸びた大通りの終点に立つ、大門、いわゆる、大鳥居が立っているのである。

 そこを越えれば、里の郊外となる。

 林、山、森、田畑が多くなり、里内であるから危険な事は無いのだが、それでも夜になれば極端に闇色が多いその一帯は、気軽に寄り付こうとは思われない。



 薄藤の大鳥居も、逢魔ヶ時の空色に溶け込んでしまい、消し炭色に沈んでいた。

 暮れ時特有の強い空っ風が、バタバタと木々を揺らして音をたてている。

 大鳥居の上に立つ紅は、鳥居の足元に集まった子供達三人の様子を見下ろしていた。

 黒く長い髪は、不規則に流れる風にはためいて耳元で耳障りな音をたてる。

 顔にかかる髪の毛を書き上げて、紅は腕を組む。

「じゃあ行こう」

 そうきっかけを出した少年を皮切りに、小さな三つの影は鳥居から外に向かって小走りに走り出した。

 上からその足跡を見下ろして眼で負う。

 ちょうど良い距離をとったところで、鳥居の上から飛び立つと、音を消しながら後を追った。

 確かにこの方は、慰霊碑の広場。



 真っ直ぐと伸びる道の両脇は林に挟まれており、それも次第に道幅が狭くなり林は森となり、闇色も濃さを増す。

 それでも、三人の子供達は殊勝にも前に進む。

 ことに、二人の少年の背中の影に隠れるようにしている少女も、周囲に気を回し耳をそばだてている。

 いつ襲い掛かる敵にも対応できるように。

 無意識の行動。

(案外、一番のやり手になるのはあの女の子かもしれないわね)

 木の上を飛び移りながら子供らの行く先を眺めている紅の目にも、そう映る。

 

 狭い獣道のような道をしばらく進むと、急に森が開けて野原に出る。

 盆地のように、周りを森で囲まれていながら、そこだけ穴があいたように広がった岩肌の原がある。

 まるで影絵のように、原の向こうから上る月影の中に浮かび上がる、いくつもの岩と、

 そして、その中央に忘れ去られたように置かれた人工の岩。

 墓標が浮かぶ。



 一帯が見渡せる草むらに身を潜めて、子供達は声と気配を殺した。



 紅は、そのすぐ頭上の木立に立つ。



 夜の風は、煽ち風となって野と林を吹きぬける。

 耳元を乱暴に通り過ぎる風は、足元の枝葉を揺する。

 いくつもの声が重なって唸りをあげているように、空気が鳴いている。



「まだ花は無いね」

「……どっちの方から来るのかな…」

 風に混ざって子供達の微かな会話が紅の耳に流れてくる。

 それに促されるようにして紅も視線だけで辺りを見渡した。

(……………得に禍々しい気配は無いようだけど…)

 と直後に

(・・・何やってるのかしら私…)

 と言いようのない疑問が湧き上がってくる。







 そこへ…



「……?」



 風が止んで、

 耳が痛いほどの静寂が辺りを包み込んだ。



 満月が、

 空を覆うほどまでに昇りつめていた。



 その光の中に、

 浮かびあがる白い幻想。



 花。



「……来たっ…」

「しっ…」



「!」

 蛍のように、宙に浮かぶ花。

 白い鬼火のよう。



「…あれは……」

 と思えばそれは、

 花束を手にした人影だ。

「ゆ、幽……」

 喉が引きつったような子供達の声が擦れた。

 満面の月光の中で、逆光となった人影は、白い花束を片手に原の中央へと歩み寄る。

 止んでいた風がまた、そよぎ始めた。

 雲を運び、わずかに強い月明かりを弱めた。

「あ、あれ………?」

 月光の下、明らかになる人影の正体。



「い……」

「イルカ先生……?」

 先にそれと分かったのは、感覚の聡い子供達だった。

 寸時遅れて紅もそれに気づいた。



 慰霊の場に現れた、幻の献花主。

 その正体は、幽霊見物に来たこの幼い子供達もよく見知っていた教師だった。



(イルカ先生………)



 それは、紅といえども同じ心情。

 木立の下、足元にいる子供達の事を一瞬忘れて、紅はそこにある情景に見呆けていた。



 黒髪の、平凡な面持ちの男が、花の束を片手に垂らして慰霊碑の前にたたずむ。

 それが、月光の中で絵画的な情景にうつるのだ。

 美とも違う幻想。



 花を片手に抱えたイルカは、慰霊碑の前に片膝をついた。

 茎を束ねていた紐をほどき、いとおしそうに石の前に並べていく。

 小さな花の泉がそこに出来上がる。

「……何、してるんだろうね…」

「何でイルカ先生が」

 紅の足元からささやきが聞こえてくる。

 どれも紅を代弁しているよう。



(…本当、何してるのかしら……)



 ただ、物言わぬ石と、並べられた花の前で、

 ただ無言で向き合っているだけ。



 声無き会話がそこで交わされているようにも見える。



 風の音しか存在しない空間。



 そこへ、



「!?」



 新たに黒く長い影が差し込んだ。

 首ごと紅は現れた気配の方を向き返る。

 イルカの背後方向から差した、黒い影。

 四つ。

「…………」

 背中にかかる影の現出に、イルカはゆるりと立ち上がった。

 その背中に、



「おい、狐丁稚」



 と荒い声がかかった。

 それに重なって、「狐憑き」「狐丁稚」と蔑む言葉が続いた。

 イルカは背中を向けたまま、花の泉を見つめていた。



「…………」

 紅の眉根がひそんだ。

 子供達は、言葉の意味がよく汲み取れずにきょとんとしている。ただ、そこに漂う空気の変化が劣悪である事だけはわかる。

 

「…っ!」

 大きく丸い瞳を見開いて、紅は息を呑んだ。

 白い月光の中に隠れるように、

 銀の刃光が煌いたように見えたからだ。



 敵か。

 否。

 いずれも木の葉の面々。



「いけない……っ!」



 引きつったような叫びが

 掻き消える。









 いつも、笑っていた。

 いつも、誰にでも優しくて、

 ことに子供達には、まるで兄のように、父親のように、



 そして母親のように、



 彼は全てに愛情を向ける。



 彼は、知ってしまっているから……



 知らない人達のために……



「え…?」

 草陰にかくれていた少女が思わず腰を浮かした。

 銀色の光景の中で、さらに煌いた微かな銀色。

 それが刃物であると本能的に察知して、体が反応したのだ。

 ほぼ同時に、頭上の木枝から飛び降りる黒髪のしなやかな影が風のように通り過ぎていった。



「いけないっ…!」



 という引きつるような叫びと共に。



 紅が枝を蹴るより前に、刃物を振りかざす人影はイルカに向かって地を蹴っていた。

 風によって遮られ、聞き取れなかったが、何等の雑言を吐き捨てる。



(間に合わない……!)

 瞬間的に紅の脳裏に、突き刺さるように絶望的な推測が浮かぶ。

 稲光ほどの一瞬の間に、様々なことが脳裏を駆け巡った。

 イルカに向かって突き進む男の影と、そして同じく全速力をかけてそこに駆け寄ろうとする紅。

 思考の結果、紅の口から出たのは、

「逃げなさいよ!!」

 という叫び。



「え…?」



 覚醒したようにイルカが声の方に僅かに首と体を回した。

 手をさし伸ばしてこちらに駆け寄る黒髪の姿を視界にとらえ、イルカの目の色が変わった。



 来 る な



 彼の口がそう形取ったように見えた。

 その声も、男たちの声や、風の音にかき消されてしまったが。



 直後、

「っ…」

 舌打ちに似た短い息と、何かが裂けるような音がした。

「ちっ!」

 標的がわずかに動いた事で狙いを外した男の舌打ちが、直後に重なる。

 小柄の刃先が、紅の方を振り向いたイルカの脇腹に



 突き立っていた。



 どこからともなく、少女の短い悲鳴がした。

 それに続いて、

「バカ……野郎!!」

 骨が当たる鈍い音。

 イルカの体に接触していた男の体が、一気に押し出されるように吹き飛んだ。



 いっそうに強く輝く月光。



 何が起きたか、突如現れた現象に、飛ばされた男はもとより、ともにやってきた男たちも

 驚愕を顔にして目を見開いた。



 拳を振り下ろした姿勢の黒髪のくの一が、

 月光の中に浮かび上がったからだ。

 後ろで、脇腹を抑えながらも立ちこらえる中忍をかばう様に立ちふさがるくの一、それが上忍の夕日紅と知る。

 紅は、イルカの脇腹に刃を突き立てた男の顔面を、全身の力で殴り飛ばしていたのだ。



 風景がそこで止まったかのようだ。

「…………」

 子供達は体を震わせ、その場に座り込んで言葉も出ない。



 イルカの背後に置かれた白い花には、

 飛び散った朱の滴が…



「くれ…ない先生……」

 目の前に立ちふさがるしなやかな背中に向けて、イルカが呟く。

 そこをどけ、と手を伸ばしたかったが、全身の神経が脇腹に集中してしまっているかのようで、指先一本動かすのもままにならない。

 ただ、その獣のようにしなやかで美しい背中を朦朧とする視界で捕えている事しかできない。



 一方の暴漢達は、

 森から現れた獣神のあらましと見紛う、黒髪の上忍に見据えられて動きを止めていた。

「う………く……」

 静かだ。

 だがこれほどに激しい怒りがあるだろうか。

 

「消えろ」



 ただ、そう一言発した紅の言葉。

 地の底から這い出た、怒りの触手。

 これ以上ここにいては、飲み込まれて身を焼き尽くされる。

「く……ッ」

 本能的に恐怖を感じ取った暴漢達は、上ずる声を抑えながら背を向けた。

 そしてそのまま、姿を消す。



 一目散に、複数の気配が遠ざかった消えた。



 見送るまでもなく、紅は背後に向き直った。

 体重を支える力を無くしかけたイルカの膝が、同時にがくんと折れた。

「!」

 両脇に手を通して、男の体を支えた。

 正面から抱き合うように、イルカは紅の肩に顔をのせる。

 その脇腹から流れる朱色が、紅の装束を同じく朱色に濡らしていた。

 じわりじわりと感じる、熱。

「………」

 倒れないように、

 衝撃を与えないように、

 ゆっくりとイルカの体をその場に横たえた。

 応急処置にと、服の裾を破り、包帯とした。

 それを服の上からイルカの腹に縛り付けた。渾身の力で。

 わずかにイルカの呻声が漏れたが、それでも。

 とにかく、流れ出る血液を塞き止めるため。

 包帯はみるみる朱色を帯びるが、それでもそれ以上の血液の溢出を断ち切ることが出来た。

「…」

 そこまで終えて、紅はその場から立ち上がった。



 草陰で震えていた子供達が、びくりとさらに肩を震わせる。

 その小さな気配たちに向かって、紅は歩を進めた。

 月光を背に、少しずつ近づいてくる美しい獣神に、子供達はただ恐怖の混ざった色を瞳に浮かべて見惚けるしかない。

「う………」

 無を面持ちに浮かべて見下ろす紅に、少年達は視線を捕えられて硬直した。

 同じくその黒く大きな瞳に捕えられて身動きをなくす少女。

 だが、

「い……イルカ先生…は?」

 と震える声で必死にそう尋ねた。

「…………」

 ふっ…と、紅の口元が綻んだ。

 胸の前で片手印を結び、

「大丈夫だから」

 と答えた。



 大丈夫だから

「今夜の事は全て忘れなさい」



 紅の細い指先が、

 小石が水面を飛ぶようにして子供達の額に順に触れた。



 糸が切れた人形のように、次々と子供達の体がその場に落ちた。

 三人、体を寄せ合って眠るように。



 この子達はすぐに目を覚まし、この場で見たことを全て忘れて、帰っていくだろう。



 眠った子供達を背にして、紅は再びイルかの元に歩み寄った。

「……」

 見れば、顔色から生気が抜けかけている。

 一抹の焦りを胸に宿しながらも、紅は一度深く呼吸をすると、次に自分がするべき事を実行に移した。

 地に、慰霊碑の前に横たわるイルカの体を抱き起こして肩を担ぐ。

 そして、チャクラを両腕に集中させて力を溜め、

「っふ……」

 大の男の体を支えて立ち上がった。

 意識が朦朧とし、力が抜け切った人間の体は、実際の何倍もの重さとなって圧し掛かる。

 大木を背負って引きずるように、紅は背中と肩にイルカを担いで歩き始めた。

 夜露に湿ってわずかにぬかるんだ土に、足跡が深く残る。

「しっかり……っ!」

 徐々に重たくなるイルカの体。

 誰に向けた叱咤か、紅は何度もそう繰り返しながら、痺れそうになる腕に尚も力をこめて、

 イルカの体を支えて歩き続けた。



 朝。

「無断欠勤?」

 ヒナタら、紅班の子供達が、やり場がなさそうに任務受付所へとやってきた。

 任務依頼書を受け取ったカカシら七班は、もう二日も紅が無断欠勤していると聞いて半ば呆れた。

 と同時に、胸中に沸き起こった薄暗い渦がカカシを襲う。

「先生ん家に行ってみた?」

 時折、大遅刻をするカカシをたたき起こしに、七班はカカシ宅に出向く事がある。

 サクラの提案に、紅班の子供達は顔を見合わせて「どうしようか」と困り顔。

 結局、事務局から住所を聞き出して紅宅に向かう事で話は終わった。

「じゃ、俺達もとっとと行こうか?」

 カカシはナルト、サクラ、サスケを連れて、森へ薬草摘みに向かうべく、受付所を後にした。

 渡り廊下からアカデミーの建物を経由して外に出る。

 長い渡り廊下は大きな窓が幾つも並び、陽光を浴びて白光に輝いている。

 ここは、様々な人間が渡り歩く。

 アカデミーの教員、戦任務から帰った戦士、そして子供達も。



 その途中、



「今日も無断欠勤か…。一体どうしたんだ?」

「まったく…」

 と愚痴をこぼす声とすれ違った。

(………)

 書類を両腕に抱えた、事務局の人間らしき二人組みが、ちょうど七班らの脇を通り過ぎていくところだった。

 紅の事か?と軽く肩を竦めてカカシは特に気にする事なく廊下の先を目指した。



「イルカ先生にも困ったものだ……もう三日目だ」



「?」

 内証話ほどの言葉端が、鼓膜を突き破るように鮮明に強く、カカシの耳に突き刺さった。

 肩越し、通り過ぎてゆく二人の事務局員の背中を振り返った。

「……」

 そしてすぐ、ナルトを振り返る。

 当のナルトはサクラやサスケと共に廊下のだいぶ先を歩いていた。

 今の言葉には、気づいていない。

 瞬時の間にカカシの脳裏が葛藤する。

 この二人の事務局員を引き止めるべきか、

 それともナルトに悟られないよう、知らぬ振りをすべきか。

「………」

 カカシが選んだのは…―

「カカシ先生はやくー!!」

「森につく前に日が暮れるってば!」

 廊下の向こうからはやしたてる子供達。

「あーうるせぇ。今いくよ」

 後頭部を掻きながら、そこへ向かう。





 薬草摘みは子供達に任せて、銀髪の上官は相変わらず木の上で読書にふける姿勢。

 いつもの事ながらも、文句を口にしながら子供達は懸命に薬草を探して森の中を歩き回った。

「………」

 木の上の上官は、愛読書物を片手に、太枝に体を預けて横たわっていた。

 だが、その視線は先ほどから文字の羅列を追ってはいない。

 

 もう三日も姿を消しているという、イルカと、

 無断欠勤して三日目だという紅。



「三日?」

 冷静に考えてみれば、

「……何かあったとしか思えないだろうが………」

 出てくるのは単純な結論。

 カカシは本を顔の前から離すと、木の下にいる子供達に視線を向けた。

 大海から小魚の卵を見つけ出すような手際の悪さで、でも懸命に叢からほんの僅かな薬草を探しては摘んでいた。

 何だかんだ言っても、それなりに熱中している。

 その様子は三つの小さな小動物がごそごそと蠢いているようだ。

「…………」

 本を懐に仕舞うと、カカシは顔の前で小さく印を切る。

 そして、その場から音を立てずに飛び去った。

「………?」

 ごく微小な空気の変化を直感的に感じ取って、サスケは顔を上げた。

「どうしたの?」

 いぶかしげなサスケの面持ちに気づいてサクラも、手を止めて顔を上げた。

 サスケが見つめる先、

 頭上。

 木の上で寝そべって読書をする、上官の姿。

「カカシ先生がどうかしたの?」

 いつもと変わらない光景がそこにある。

「……いや…」

 とだけ答えてサスケは視線を下ろした。

 少し離れた所で、叢に体をほとんど隠してもぞもぞと動いているナルトに視線を向ける。

「………」

 疑問符を浮かべたサクラは、サスケとナルトとカカシに交互に視線を送る。

「なんでもない」

 そういってサスケは再び作業に戻った。

「え?」とサクラはきょとんと目を丸くする。

 だが、手にしていた袋がまだ半分も満たされていない現実に気づき、

 すぐにまた作業に熱中し始めるのだ。



 木の上では、相変わらず愛読書片手に、惰眠気味の上官。







「……とはいえ、どうするかね」

 影法師の術を施して一時的に子供達を欺いて、ここまでやってきたは良いが…。

 ふと我に戻ってカカシは苦笑する。

 戻ってきたのは、里の郊外。長い長い痣道の途中だった。

 ここを東に行けば、イルカや紅やアスマや…、多くの忍達がひっそりと自宅をかまえる郊外。

 西に行けば、学校の方向。

 とりあえず…と東の方向にきびすを返した。



 すると、

「……?」

 人の気配を感じた。

 東の方。

 何か、高速で移動していく人の気配がするのだ。

 それが、切羽詰まった、鬼気迫るものに感じる。

 野戦場を移動していく時の、忍びに似ている。

「……」

 その気配に覚えがあった。

「あいつ…」

 移動してゆく気配の方に向けて、カカシは地面を蹴った。

 そこに追いすがるべく、あらん限りの速度で。

 森に囲まれた郊外の民宅地。

 その木々を伝って、遠回りに西に向かう気配をとらえた。

 枝葉が風でゆれ、断続的に激しい音をたてている。



「っ…おい!」

「!!」



 カカシに気がつかず移動していた人影。

 背後から追いすがって肩を掴み、カカシは人影を呼び止めた。

 ひどく驚いて、人影は強引に足を止める。体の均衡を失いかけてぐらりとゆれる。



「誰……カ、カカシ!」

 額から汗を流す紅の横顔が、勢い良くカカシを振り向いて、そして吃驚した。

「………何やってんだお前は」

 息を切らす紅。

 その頭からつま先までを眺めてカカシは目端を細めた。

 

「お前…」

 紅の両手が、赤く汚れていた。

「怪我でもしたのか?何が…」

 その細い両手を掴んで、赤い汚れの正体を確かめる。

 分かりきっている事。

 これは、

 血液の匂い。

 乾いて黒ずんだ血液が、紅の白く細い指先を汚していた。

 

 カカシを括目したまま、肩を上下させて息を切らす紅の様子に、

 さすがに不穏を感じてカカシは声調を落として問い掛けた。

「何してんだお前……どうし…」

「バカ!!」

 張り倒すように紅の怒声がカカシにぶつけられた。

 腹をたてたい所だが、尋常でない様子にカカシは無言で紅の言葉を促す。

 紅は、更にたたみかけた。

「あんたこそ何してんのよ!受付で場所を聞いて森に行ってみればそこにいたのは影法師だし……っ!」

「…俺を探していたのか?」

 紅の答えが予想外を突き、カカシは絶句するように括目した。

 その仕草が紅の怒点をさらに刺激したか、彼女は更に何かを怒鳴ろうと口を開きかけた。

「………」

 だが、

「……あ~あ、そうよ」

 とそれが諦笑に変わった。

 カカシに対する、嘲笑、とも言えた。

「あたしがバカだったんだ。何を必死になって、こんな奴の事を……」

「だから何があったんだ」

 掴んだままの紅の、血で汚れた両手をさらに強く握る。

 紅は、それを振りほどいた。

 額の汗が、飛んだ。

「好きなんでしょ?なら何で分からないの!?何で離れたままなの!」



 イルカ



「………何があった…何が…、まさかその血が…」

 血の気が引いた、というより…

 内臓が冷水で満たされる感覚。

「もういいわよ…あたしがバカだったんだから……」

 侮蔑の笑みを残して、紅は踵を返そうとした。

 疲れた体を押すように、それは覚束なかった。

「待てよ」

 支えるようにそれを引き止めて、紅の肩を掴む。

 激しく、紅が拒否を示した。

「あんたなんかもういい。来なくていいわよ」

「良くない。だから俺を探してたんだろうが」

「いいの」

「紅!」

 何度も引き止めるようにして差し出されるカカシの手。

 何度も拒否をする紅の腕。

 何度かそれを繰り返す。

「……あんたなんか……」

 カカシに背を向けた紅が、呟く。押し殺した憤り。

「………」

「あの人に今必要なのは……」

「………」

 再び手を伸ばしかけてカカシは止めた。



 その先の言葉を、求める。

 背を向けた紅のしなやかな肢体。

 僅かに、震えているようだった。

 静かに。



「あの人に今必要なのは、安っぽい友情ごっこなんかじゃないのよ」



「……………」

 耳障りなほどの静寂。

 カカシの無言が、紅の胸を刺す。

 塞き止められない言葉が、溢れた。

「傷つく事に慣れている人なんていない。いつも笑っていられる人なんていない。知らなかった…。あんな……」

 知ってた?

「あの人が、本当はいつも寂しくて、悲しくて、怯えていた事を……」

 知ってた?

「いつも与えているばかりで、自分が飢えている事に気づかない」

 何を…?



「………」

 鼓動と息遣いしか聞こえない沈黙の空気。

 

 ふ…と、

 紅が肩越しに振り向いた。

 混濁のみを映していた闇色の瞳が、聡ったような色をしている。



 音の無い笑みを、口元に浮かべた。

 それは、嘲笑ではなく…

「女ってのはね、カカシ……母親になれるのよ」

 母親。

 その言葉と同時に長い息を呑んだカカシに、

 紅はもう一つ、静かな笑みを向けて体ごと振り向いた。

「誰だって、あたしだって、あんただって…この中で守られて、生まれてきたんだ」

 腹部に手を重ねて、まるでそこに命が宿っているかのように、優しく撫でる仕草をした。



「あの人に必要なのは、そういうもの」



 分かる?

 幼子に事を諭すように、少し俯いて微笑んだ。

 

 ―こいつがこんな表情をするなんて知らなかった……。

 カカシは愕然とも呆然とも、一種、恍惚にも似た感情を抱いた。

 

 気がついたら、足が動いていた。

「どこにいる?」

「彌岬療院」

「彌岬……」

「あたしが運んだの」

 それは、闇任務などで傷ついた忍達が世話になる、裏の療院。

 表沙汰にされず闇に葬られて死んでいく者も、そうした所に担ぎ込まれる。

 その療師である彌岬とは、カカシも顔が知れていた。



「…………済まない」



 そういい残してカカシは、

 

 地面を蹴って走り出した。








「しっかり…!」

 掻っ捌かれた傷を荒療治している間、紅はずっと、イルカの手を握っていた。

 もう、強い痛み止めも効かないのだという。

 だがそれ以上に強すぎる痛み止めは、患者を廃人にしかねないので多用連用が出来ない。

 噛み布を口に含み、舌を噛まぬよう食いしばりながら治療に耐えるしか、無いのだ。

 そういう忍びは、少なくない。

 だが、そうなる前に、たいていは死んでいるか、もしくは気が狂うか、それとも凄惨なほどに強くなっているか……だ。



 普通に、笑っていられる者などいるはずもない。



 戦場に居るのではと錯覚するほどの荒療治の中で、紅は背筋に寒気を覚えた。



 治療を終え個室に移ってからも、痛みと熱が全身を蝕みまともに呼吸さえ出来ない。

 

「しっかり…」

 ただ手を握って、それしか言えない自分に、



 腹が立った。



 彌岬療院は、北門近くの竹薮通りに面した曠野にある。

 里まで命からがらたどり着いた忍らが、ここに転がり込んで来るのだ。

 無遠慮に扉を開くと、戦時には血塗れた人だかりでごったがえす玄関間が、今日は死に絶えた荒野のように沈静だ。大股に敷居を跨いで中に入ると、

「静かにしな、馬鹿者」

 と凛とした低い声がそれを戒めた。

 カカシの右手方向から、影が伸びてくる。

 峠を過ぎた陽光が、そろそろ西日となって熱く、赤く、里を照らし始める。

 光の届かない竹薮の隙間をぬって差しこんでくる光の筋たちが、窓から光線となって広間に模様を描いていた。

 そこに現れた、白衣の女。

 40に入っても尚、若さと美しさと男並の体力を失わない、女治療士。

 岩生彌岬。

 女にしては短く刈った髪は所々純白に色が抜かれている。

 くるぶしまでの長い白衣を肩に羽織ってうでを組んでカカシを細めで眺めていた。

「ここに、男が運ばれてきただろう?」

 挨拶もそこそこに、カカシは大股で彌岬に詰め寄った。

 鬱陶しそうに一歩体を引いて彌岬は首を傾げた。

「ああ、イルカちゃんの事かい?」

 イルカちゃん、だぁ?

 そう内心で毒づきカカシは「そうだ」と短く頷いた。

「いるんだろ。どこだ?」

「常連だからね。特別に日当たりの良い部屋さ」

「……常連?」

 カカシの両目がいぶかしげに細まった。

 目端が痙攣を起こしたように、一度震えるのを、彌岬は見てとらえる。

 兆発するように、答えた。

「そうだよ。月に何回かね。多い時は一週間と間を置かずに来てくれるのさ」

 女一人のこんな寂屋にね。

 その茶化した口調とは裏腹に、彌岬の眉間には影がさしていた。

「な………」

 カカシは息を呑んだ。

 彌岬とて付き合いは長いはずだったが、こんな様子を目の当たりにするのは、初めてかもしれない。

 あのカカシが、動揺しているのだ。

「まあとにかく、来なよ。見舞に来たんだろ?にしては手土産が無いようだけど」

 白衣の袖を翻して彌岬はきびすを返し、暗い廊下の方へと消えていった。

「………」

 目を覚ましたように我に返ったカカシは、その後をついていく。

 日の当たる玄関とは違い、奥の病室へと続く廊下は暗い。

 このまま地獄まで連れて行かれるのではないかという錯覚を、怪我人の時には思ったものだ。

 そして、今も。

「こっちだよ」

 病室が並ぶ廊下ではない、更に奥へと続く細い廊下の方から、手招きする彌岬がいる。

 床板が鳴らない程度に小走りに、カカシは招かれた方へと進んだ。

 短い廊下だが、ずいぶんと長く感じた。

 竹にさえぎられて光も届かない廊下の奥に、

「………」

 あの人がいる…。

「この部屋さ」

 部屋の前で、彌岬はカカシに先を譲るように扉の脇に立った。

 行く手を遮る木の扉が、地獄の門の様に、暗がりの中で聳えている。

 そこに手を伸ばしかけて、カカシはわずかに戸惑った。

 扉の取っ手に手を差し出したままの状態で、体が硬直する。

「どうした」

 叱咤する口調。

 臆病者、と罵っているようにもカカシには聞こえた。



-あの人に今必要なのは、安っぽい友情ごっかなんかじゃないのよ



「………」

 普段は決して見る事の出来ない紅の切ないほどに真摯な瞳が、

 突如カカシの網膜に重なった。

(畜生…!)

 自分は何に怯えているというんだ。

 この先にある光景か。

 それとも、ここに来るべき事をずっと知らずにいた自分自身の鈍感さにか。



 扉の取っ手に手をあてたまま静止するカカシを、彌岬は横から無言で待っていた。

 もう、自分で決断できるはず。



「………入りますよ」

 誰に向けたかそう呟いて、カカシは取っ手を下に押した。

 錆び掛けた蝶番が小さな悲鳴を上げて、だが扉は驚くほど簡単に開いていった。

「………」

 あまりの眩しさにカカシは目を細める。

 暗い廊下の行き止まりとなる扉。

 その向こうの部屋は、光で溢れていた。

 板一枚隔てた向こうは、まるで世界が違うようだった。

 この療院で最も日当たりの良い部屋、と彌岬が評したとおり、それ以上に、扉の向こうは陽光に包まれて溢れていた。

 空気の質さえ、違う。



 例えるならば、天国と地獄の差かな…

 

 そよいだ風が、カカシのこめかみを霞めて行った。

「…っ」

 寸時、まるで夢か幻にまどろむように呆けてしまった。

 我に返って、眩しさに対抗して懸命に目を開く。

 眩しくて真っ白なだけの世界が、少しずつ目が慣れた事で色を取り戻してくる。

 すると、次第に見えてきたのは、

 部屋の中央に置かれた寝台と、南向きの大きな窓と、白い布と壁と、

 そして、黒髪と………。



 開け放たれた扉の前で立ち止まるカカシの脇を通って、彌岬が病室の中へ足を踏み入れていった。

 半分ほど開けてあった窓を閉め、薄布の幕を半分ほど引いた。

 眩しいほどの光が少し弱まり、部屋の中はやわらかい光の中で薄い橙色に染まる。

「だいぶ落ち着いたね。汗も引いた」

 寝台の傍らにおいてある水と氷の入った容器から、つけてあった布を絞った。

 水の音。

「………」

 カカシはまた、足音をたてぬよう歩き出す。

 寝台の前に立つ彌岬の傍ら、一歩引いた場所で足を止めた。

 彌岬の体の向こうに見え隠れするのは、

「…イルカ先生……」

 その人が。



 腰まで白布団が掛かっており、上半身は外気に晒されていた。

 腹部から胸元にかけて、白い敷き布団と同化しそうな白い包帯がほぼ全体に巻かれていた。

 ただ、左脇腹あたりに、うっすらと咲いた朱い花らしき血痕が…。

「……」

 カカシが見下ろす中で、イルカは眠っていた。

 呼吸に大きな乱れは感じられないが、だが時折、喉につまったような息をする。

「今回は特に酷かったね。相手も殺そうとしてやったんじゃないのかな」

「…………んで…」

 

-なんでそんな

-里の中でだろう?



 という言葉も、上手く声に出せない。

 そこに、

「教えてあげようか?」

 背後から、影が差した。

「…紅……」

 振り返れば、しなやかな影に相応しい肢体が、入り口に立っていた。

 少し疲労した面持ち。だが、暗い廊下とまぶしい室内との境目に立つその姿は、どこかしら神秘的な、絵画的な印象があった。

 先ほどの事も手伝ってか…。

「いつの間に…」

 彌岬も僅かに驚いたように肩をすくめ、胸前で組んでいた手を解いた。

 気配など、気づかなかった。

 紅は、寝台を挟んでカカシと向かい合う位置に移動する。

 窓からそそぐ光を背に受けながら、イルカが横たわる寝台を覗き込み、

 そして落ち着いた様子に安堵して微笑むのだ。

「教えてくれ」

 姿勢を正したまま、カカシは静かに尋ねる。その隣から、彌岬が肥えをかけた。

「私も聞かせてもらってもいい?一応、『主治医』なんでね」

「いいんじゃない?」という紅の頷き。

 かがめていた腰を伸ばして二人に寝台越しに向き合う。

 ほんの少し、窓からの光が薄れたような気がした。

 それは単に、紅の面持ちに陰りが差したからだけではないのだろう。



「まあ……一言で表すとなれば…私刑…っていうところかしら」



「……」

「…そうかい」



 驚きを表出させる様子は、二人には無かった。

 むしろ、更に濃い影が忍び寄って来たかのよう。

 沈痛。



「この間も偶然…雨の中でボロボロになったこの人を見つけたんだ」

「「この間…?」」

 彌岬とカカシの声が重なった。

 思わず視線を見合わせて、そしてすぐに紅に戻す。

「1週間ちょっと前の事よ」

「ここには来なかったけど」

 と彌岬。

「そりゃそうでしょう。私がこの人の家で看病していたんだから…」



‐朝帰りしちゃった…



 彌岬と紅の会話を聞いていて、カカシの脳裏に浮かんだのは、おどけた紅の台詞。

「……あの時か……?」

「そうよ」

「心当たりでも有るわけ?」

 意外そうに彌岬がカカシを見やった。

「少し…」

「ふうん……」

 その返答の弱々しさから彌岬が現状理解をするのは容易だ。



「何があったのか、聞かせてもらえないだろうか」

 とカカシは紅に向き直る。

「………」

 自分には決して向けた事のなかった柔らかい言葉に使い方だ。

 思わず紅は大きな黒い瞳を見開いて、朱色の唇を開きかける。

 彌岬も、もはや驚く事も諦めて、この顔なじみの銀髪の上忍と長い黒髪のくの一のやりとりを見守る事にした。

「人に物を頼むのには、中々良い態度だわ」



 口はしに笑みを浮かべて、紅は目を細めた。








 その時を振り帰ってみれば、あれは本当に何気ない日常の中に突然現れた出来事だったと思う。

 と、紅は言った。







朝陽   5





 予兆も予感も、何も前触れらしきことは無かった。

 だとすれば、自分の勘の鈍さを呪うべきなのかもしれない。



 日常。

 いつも通り、子供達を引き連れて毛の生えたような任務を終えて、いつも混んでいる受付で報告書を提出し、子供達と別れ、同僚のくの一達と無駄話をしてお茶を飲んで、それから建物を出た。

 ほぼ同時に、雨が降り出した。

 唐突な雨。

 傘など持っていなかった。

(何か、嫌な感じ…)

 濡れて帰るのが億劫で、そんな風に口走った。

 もしかしたらそれが、「予兆」だったのかもしれない。

 

 明日も任務だ。

 帰らなければどうしようもない。

 仕方なしに紅は、濡れるのを覚悟で悠々とした足取りで、外に出た。家で熱い風呂にでも入れば風邪など引かぬだろう。

 自分の体力と健康を信頼していた。

 少しずつ強さを増してくる雨の中、若干足を速めて紅はいつもの道のりを行く。



 とその途中で、

「……まだ開いてるかしら」

 ふと足を止めて方向を変えた。

 紅宅への帰路からわずかに外れた、錆びれた町外れ。

 一般の人間は誰も足を向けない、むしろ一部の忍のみが立ち寄る店があるのだ。

 特注忍具や薬剤を取り扱う店。

 一本気な職人一族が開く、錆びれているのに、何故か中々潰れる様子がない店。

 店構えも全く商売気がなく、錆びれた古屋だ。



 研ぎに出していた苦無が、もう何日も預けっぱなしだった。

「そろそろ取りに行かないと、錆びちゃうわね」

 何せこの湿気が気になった。

 濡れたついでに、取りに行こう。

 ついでに、傘でも借りようか。

 ふと、そう思った。



 相変わらずに錆びれた道並。

 悪路ゆえに水溜りを避けながら歩く。

「…………?」

 ふと、人の気配がした。

 雨音にまぎれて、まるで通りすぎて行くかのように感じた、微かな気配だった。

 完全に無人だと思っていたのに…。

 半ば訝しがって紅は、行くべき道を反れて裏道に入った。

 ぬかるんだ悪路に眉根をしかめつつ、濡れついでに好奇心も手伝って裏を覗く。

「………この匂い…」

 雨独特の饐えた匂いに混ざり合って、鼻腔に不快をもたらす錆の香が漂った。

 慣れているとはいえ、いつもながら寒気を感じる。

 雨に打たれて濡れ鼠となった体が、急に冷え込んだ。

 裏路地の、更に奥へと曲がったところで足を止める。まだ新しい、いくつもの足跡を見た。それを追って、更に更に奥へ。微かに感じる人の気配が、まるで助けを求めているように紅を呼んでいた。

 寒い。

 だが恐怖は無い。

 自然に進む足に任せて、顔だけを覗かせる。

 すると、

「………誰か、いる?」

 薄暗がりの袋小路。蹲るような人影があった。

 呼びかけに、応える気配は無い。だがそれは確かに人間。

「……ねえ」

 何故か放っておけずに近づいてみる。指先に微かな炎を灯してみた。蹲るように倒れる、若い男だった。

 どこかで見たことのあるようなその容貌に、紅は訝しげに目を細めて凝視する。

 雨と泥に濡れて垂れる、束ねた黒髪が見えた。

「え……?ちょっと…」

 せきを切って紅はその場にしゃがむ。

 男の肩に手を掛けて、揺り起こす。脱力した男の体が、紅の手に揺さぶられてうな垂れた。

 顔を見ようと、体を返す。

 泥に汚れた、だが見なれた顔がそこにあった。

「う…みの…先生……?」

 薄闇の中でも、鼻筋を通る傷跡は目立った。男は、アカデミー教師。うみのイルカ。

 炎を灯した指先で、顔を照らしてみる。見ると、泥以外にも彼の顔を汚していたのは、雨と泥に混ざった、血。

「…なんで…?」

 首の下に手を沿えて、しゃがみ込んだ自分の膝にイルカの上半身を抱いた。

 力なくしな垂れる首。

 汚れた顔を拭ってやると、切れて出血した唇や、ひどく殴られ変色した頬のあざが現れる。

 視線を下の方に移せば、破れた服。そしてそこから見えるまだ色鮮やかな傷の数々。

「うみの先生……イルカ先生っ」

 イルカの上半身を抱いて、揺さぶる。途中で、もしやと思いなおして体を離し、イルカの胸元に手を添えて軽く押してみた。

「……っごほ…」

 小さな咳き込みが返る。

「…折れてはいないわね…」

 だが、酷く痛みつけられている。ヒビの一つ二つは覚悟するべきだろうか。

 強く揺さぶって起こそうとしたのを諦めて、紅は一度イルカから体を離した。

「………」

 泥土の上に横たわるイルカの体は、ひどく冷え切って、だが傷の熱と伴って苦しげな呼吸となって口元から細かく漏れていた。

 正常な呼吸ではない。



 とにかく助けなければ。

 そう思い直って紅は態勢を立て直す。

 イルカの脇に手を差し入れて体を起こし、うまく自分の体を回転させてイルカの体を背中に乗せた。力なく垂れ下がる両腕を首の前で掴み、「よっ…」と小さな掛け声と共に膝を伸ばして立ち上がる。

 紅より一回り大きな男の体が、うまい具合に持ちあがる。

「う…」

 胸の圧迫感に、うめく声が漏れるが、紅はその姿勢のままイルカの両ももの下に両手を当ててイルカの体を背中で支える。

 紅の肩越しに、イルカの頭と両腕が重力に従って垂れ下がる。

「……」

 上手く背負えたものの、さてどこへ行くべきか。紅はその姿勢のまま一瞬、立ち止まる。

 だがすぐに決心した。

 二度ほど、玄関先まで行ったことのある、イルカ宅。

 一度は、三代目から預かっていた書類を届に。

 一度は、部下であるヒナタがある事情でイルカ宅に世話になっていた時。

 場所は、覚えていた。

 紅の足は、その方向を目指す。



「……」

 歩き出しかけて、紅は思いとどまった。

 一旦方向を変えて、目的地であったはずの店へと向かう。雨のために固く閉ざされた入り口の前で、

「ちょっと、開けて!おじさん?」

 と大声で呼んだ。

 近所迷惑するほどこの辺りに人家など無い。

 灰色の景色と、断続的な雨音の中で、凛とした女の呼び声が異質に響く。

「開けてちょうだいよ」

 何度目かの呼びかけの後、ようやく扉の奥から人気が現れ、続いて明かりが点った。

 軋んだ音と共に古い硝子扉が開けられて、そこに現れたのは浮世離れしたご老翁。

 大の男を背負って濡れ鼠の若い女に、上から下まで視線を這わす。

 それから一言、「なんだ」と問う。

 雨だれの音と、しわがれて掠れた声が、同化した。

「この人に…」

 応えながら紅は背中に背負った男を見せるように、体を横に向けた。

「何か羽織るものをちょうだい」

「ん?」

 老師は紅の肩に力なく垂れ下がるイルカの顔を、覗き込む。

「人目もあるし…こう、全身にかぶせられる布で…」

「イルカじゃないか?この男」

 紅の言葉に重なって老師の問いが下から覗き込んだ。

「知ってるの?」と問い返せば、また老師は紅の言葉には応えずに「待ってろ」とだけ言い残し、玄関の奥へと姿を消した。

 とってつけたような軒下、灰色の雨音を背景に、大の男を背負った若い女を残して。

「…………」

 しばらくして、奥の方でガサガサと何やら物音がする。

「いまどき珍しい、優しい男だ」

 と良いながら、色褪せかけたうちかけを持って再び現れた。

 何の話かと思いきや、先ほどの紅の問いに対する答え。

 昔の女房の着物だ、と言い訳するように、老師は女物のうちかけを、イルカごと紅の背にかけてやる。絣細工が施された長いうちかけは、イルカの体を包み込んだ。

「どうも」

「たまに、『馬鹿』がつくほどな」

「……」

「じゃあな」

 とだけ言い残し、老師は静かに扉を閉めた。

 軋んだ硝子の音。

 強さを増した雨音。

 全ての音が、灰色世界の中に溶かされていった。

「……帰りましょうか」

 再び紅は雨の中に歩を踏み出した。









 イルカの家まで、できるだけ人目を避けた。

 とはいえ、濡れ鼠のまま何かを背負って駆けて行く女の姿に、いくつかの奇異な視線が集まる。いっこうに気にせず、雨と視線を振り払うようにして紅は走った。

 背中に背負った男の体温が、まったくと言って良いほど感じられない。

 冷え切った体からは、小さな息遣いしか感じられない。まるで、

 記憶をたどり、ようやく到着したイルカ宅は、静かなたたずまいの中にあった。当然ながら無人の家宅から、漏れてくる明かりは無く。

「……鍵…」

 どうするか一瞬まよって、紅はふと、郵便受けの下に置かれた足元の植木鉢に気がついた。まさかね、と苦笑して、イルカを背負ったまま腰をかがめて手を伸ばす。

 鉢をわずかに傾けると、そこに銀色が覗いた。

「……泥棒に入られるわよ」

 恐らく、ナルトのためだろう。

 植木鉢の下には、合い鍵が置いてあった。

 もはやこれでは、「隠す」とは言いがたい。紅は無遠慮にそれを拾うと、暗がりの中手探りで鍵穴に差し込んだ。カチリと小気味良い音がして扉が開き、室内の暗闇が二人を招き入れる。

「お邪魔しま~す」

 小声で言いながら紅は土間で靴を脱いだ。

 湿って冷えた暗い空気が漂う。

 足で扉を閉めると、外界の音が遮断され、雨音が遠ざかる。文字通り、「しとしと」とした水が土に吸い込まれて行く音だけが静かに聞こえてくる。

「……明かり明かり…」

 手探りで壁を撫でて明かりを探す。

 指先が突起を探り当てると、玄関の明かりがほのかに点った。薄ぼんやりと、廊下の先が映る。

 土間は、二人の体から滴り落ちる雨水で、小さな水溜りが出来ていた。

 濡れた裸足で廊下に上がる。

 短い廊下には、部屋へと続く二つの扉があった。恐らく手前は居間だろうと見当をつけ、奥の扉の前に来た。うまく片手でイルカの体を支えて、空いた手で扉を空ける。引き戸が開ききった向こうには、広々とした部屋だった。暗闇の中に、寝台が見える。

「……」

 このまま寝台に乗せるわけにもいかず、とりあえずイルカの体を寝台に背中を預ける形で床に座らせた。羽織らせていたうちかけで、体全体の雫を拭い取る。

 部屋の明かりは落としたまま。

 思いのほか、雨の外気が明るく思う。

 見え隠れする男の傷だらけの顔を気にしながら、紅は濡れた体を拭く。

「……ああ…そうか」

 しばらくして、むしろ濡れたままの自分が、床とイルカを濡らしている事に気付く。うちかけをイルカに羽織らせ、一旦その場に立ち上がった。勢いに任せて、雫がぽつりと落ちる。窓に薄ぼんやりと映る自分を見た。硝子の向こうは、ただ灰色の世界。近所の軒は薄闇と雨に掠れて影しか見えない。人通りも、無かった。

 いっそ面倒だと、紅はその場で衣服を脱いだ。部屋の隅に置かれた背もたれ付きの椅子にかける。

 どうせ誰も見ていない。

 下着のみの裸体同然の姿でイルカの傍らに再び膝を折るが、目を覚ます気配も無い。逆に、ここまで来ても意識を取り戻さない事に焦燥さえ覚える。

「湿り取りは…っと」

 すぐに我に返ると紅は手当ての続きに入った。洗面所から布を引っ張り出してイルカの体を拭い、大きめの布を寝台に敷いた。イルカの額当てを外して上半身の服を脱がせ、寝台に寝かせる。

「……」

 あらわになった上半身の傷と痣の数々に、紅は息を呑んだ。寝台の枕元の小さな明かりを手探りで点灯した。鬼火のような小さな玉灯が浮かぶ。

「……生傷だらけじゃない…」

 まるで野戦の衛生班だ。

 任務を請け負っているわけでもあるまいし、何故専属教師のイルカが…。

 所々変色したイルカの体に、静かに指を這わす。新しい傷から、古い痣まで、その体には呪印にも似た痕がつけられている。傷に触れているうち、イルカの体温が上がっているのに気が付く。

 寒さと怪我があいまって、熱を出したのだろう。

 まずは手当てを、と思い立ち上がりかけて、紅はふと足を止めた。

「そういえば……」

 もう一度、イルカの傷を見下ろす。

「服を着ていては見えないところにばかり傷がついてる………?」

 自然と、眉間に皺が寄る。

 徐々に呼吸が乱れてくるイルカの面持ちは、血の気が無かった。それでも、熱による脂汗が頬や額ににじみ始めている。

 良くない兆候だ。

「……勝手に色々借りるわよ」

 半裸のままズカズカと洗面所へと足を踏み入れる。見当をつけた戸棚を開けて布を引っ張り出す。次に寝室を歩き回って薬箱を探した。適当に薬瓶を掴んでまたイルカの元に戻る。

 続いてまた洗面所に戻り、洗面器を二つ引っ張り出す。一つにはぬるま湯を張り、一つには冷水を張る。

 ちなみに、二つある洗面器のうちの一つは、明かに子供用と思われる柄が描かれていた。

 冷たく濡れた布をイルカの顔上半分に乗せ、次にぬるま湯に濡らした布を絞って体についた血汚と泥を拭き始めた。

 今日新たにつけられたであろう傷が、浮かび上がってくる。

 首筋近くに大きな裂傷が一つ。

 わき腹付近に内出血痕あと、刃を避けたとみられる裂傷が数個。

 両腕に、刻まれたような傷が数個。

「……」

 知らぬうち、紅は唇を固く噛んでいた自分に気付く。

「っう……」

「……イルカ先生?」

 傷に触れたと同時に、イルカの口から苦痛の声が漏れ出た。体中が、徐々に汗ばんでくるのが分かる。イルカの肌にふれる紅の掌が、汗で濡れる。

 発熱する事で傷口が再出血する恐れがあった。

 紅の手は再び、忙しなく動き始める。

 傷口を拭き、止血の為に傷口付近を固く縛って固定する。それからまた傷口を洗い、薬を塗る。

 ずいぶんな荒療治だと、自分でも思う。

 だが、時間がなかった。

 

「……」

 最も大きい、わき腹付近の傷に、紅の手が伸びた。

 わずかに触れただけで、イルカの体は過剰な反応をみせる。無意識に体が、痛みに対して拒絶を示している。

「ぅ……っ」

 イルカの目元と額を被っていた布が、はらりと落ちた。苦痛の面持ちから目を逸らしたくて、また濡らした布でイルカの目元を被った。イルカの口元が、苦しさに空気を求めてあえいでいる。

 止血のために、イルカの体に布を回す。きつくそれを縛る前に、紅は自分の口をイルカの耳元に寄せた。

 静かに告げる。



「いい?我慢なさいね……」



「………」

 応えるように、イルカの息が数度強く吐き出された気がした。

 次の瞬間には、紅はその細腕にあらん力をこめて、傷口付近の布を縛り付けた。

「うっ……ぁっ」

 歯を食いしばり痛みに耐えるイルカの声が漏れた。無意識なのだろうが、まるで紅の言葉にしたがって痛みに耐えているように、両手は寝台の敷布を掴み、こらえている。

「もう…少し…」

 傷口を汚す血を全て出しきり、化膿を抑える為の止血方法。縛り付ける布地があっというまに赤に染まった。

 その広がりが止まる頃を見計らい、一旦縛り付ける。しばらくこうして血を止めないと、薬を塗ることは出来ない。

 縛り上げた布から手を離して、紅は自らの額を濡らす汗を腕でぬぐった。

「っは……は……」

 寝台の上で、イルカの胸元が小さく上下していた。呼吸は小さいが、小刻みに荒い。痛みが徐々に通りすぎるのを待っているかのように。

「……」

 熱を持った傷は、布地の上からでもはっきりと分かる。そっと手を添えてみれば、熱と共に粘り気をもった血液が指先に付着した。

 と、

「……!」

 手を添える紅の手に、イルカの手が添えられた。

「気がついた!?」

 つい声を高くしてイルカを呼ぶが、返事は無い。

 まだ意識は無い。

 だが、その手は確実に、意思をもって紅の手に触れていた。

「……イルカせ……」

 名前を呼んだ時、またその手が強く紅の手を握った。

 すがるように。

 まだ荒い息の下で、イルカの口元が何か言葉を発しようとしているように喘ぐのが見える。



「………あさん……」



「え………?」

 耳を疑って、紅は身を固くする。

 熱を持った、まだ血で汚れたイルカの指先が、またすがるように紅の手を強く握る。



 母さん………



 確かにその声は、

 そう言って紅を呼んでいた。






何考えてるかわからない女

冷たい女

可愛くない女





 そんな風に言われた事はあっても、





―夕日先生?ああ、知ってるぞー。凄い美人で、優しい先生だよな



 

 そんな風に言われたのは初めてだったから……




「え……」

 イルカの口から数度もれたそのうわ言に、紅は耳を疑う。

 何度も、聞き返した。



 遠い記憶の中にいる母親を求める掠れた声はやがて消える。だがすがりつくようなイルカの指は強く紅の手を握ったままだ。

 生の淵にしがみつくように。

「……」

 左手を握られたまま動けずにいる紅は、空いた手で寝台の傍らにおいた洗面器に手を伸ばした。何とか器用に濡れた布を絞る。ほどよく冷たいそれで、汗ばむイルカの額を拭ってやった。

 ほう…っとため息に似た息遣いが聞こえて、気のせいか固く閉じられていたイルカの目元が安堵したように緩んだように見えた。

「……気持ちいい?」

 静かに声をかけながら、また汗を拭う。

 絞りきれなかった水が、汗と一緒にイルカの額から傷のついた鼻筋を通って首を伝った。

 熱の為に苦しそうに上気する体の上で、水滴が蒸発してしまうように冷たい空気の中で僅かに白い湯気を放っている。

 

 そのうち、

 紅の手が震えを感じた。

「?」

 紅の手が震えているのではない。それを握るイルカの手が、かじかむように震えているのだ。

「っ……熱のせい…?」

 熱と悪寒のせいかと思い、症状の悪化に紅は聞こえない舌打ちをした。

 お湯を取り替えようと、立ち上がりかける。

 その時に、イルカの震えが悪寒のせいではないと気づく。



「……かない…で…」



「…………」



 行かないで



 逝かないで





 見えないはずのものが、紅の脳裏に流れ込んで来た。

 燻る血霧、交差する怒号、空を覆う白い影。

「っ…な…に……!?」

 振り払うように頭を振る。

 そこには何も無く、殺風景なイルカの部屋の壁があるだけ。

 下を見れば、寝台に横たわるイルカの体があって、つながれた手が見える。

「………幻…?」

 大きな鼓動をたてた心臓。

 一つ深い息を吐き出す。

 紅の細い指先を覆うイルカの手の甲を見た。つながる二つの手。

 ここから伝わってきた、脳裏に直接流れ込んできた、「感情」だったのかもしれない。

「あなたがこれを私に見せたの……?」

 握られた手から、力が抜け始めた。

 まだ、震えている。

「…イルカ先生……っ?」

 今度は紅が、手を強く握り返す。

 反応が無い事に焦りを覚えた。

 小刻みに震える手は、怯えた小動物のように……



 怯える……?



 紅は自問する。

 イルカの体中に残る痕を見て、自答する。

 そう、彼は怯えているんだと。



「イルカ先生…………イルカ?」

 薄闇の中、苦しい吐息と共にうっすらと、イルカの両目が開かれた。

 手を握ったまま紅が上から覗き込んで名を呼ぶ。

 だが、熱に浮かされて潤む両目に光は無く、何も映していないようで空虚の中を泳いでいた。

 手を目の前で振ってみるが、生理的な瞳孔の反応さえ見せない。

「イルカ…っ!」

 叱咤するように、声を上げた。

 空いた手を、イルカの頬を包むように添えた。

「しっかりしなさいよ!」

 軽く、さすってみる。

 小さく開いた唇からは、生理的に吐かれる苦しげな呼吸だけで、瞳も反応を見せる様子もなく。

 じれったい。

 苛立ちが募る。

 唇を噛んで、離して、そしてまたイルカの名前を呼んだ。

「大丈夫だから…もう怖くないから……」

 だから、目を覚まして。

 「夕日先生」と呼んで。

 

 いつもみたいに



 頬に添えさせていた手が、次に額を撫でる。

 水を触っていた為に冷たい紅の掌には、イルカの額が熱く感じる。

 薄い指先の皮膚の表面が、焦げ付くような痛みを感じたのは、胸の内から湧き起こってくるこの感情のせいなのか…。



「怖くないから…」

 白い包帯と、赤い血の滲みと、上気した肌色、そして熱に浮かされて空虚に潤む黒曜の瞳と…。

 何て扇情的なんだろうか。

(こんな所をアイツが見たら……きっと放っておかないわね……)

 銀髪のドぐされ同僚の上忍を思い起こして紅は苦笑する。

 無意識に、怯えのために震え、安堵を求めている。乞うている。



「かわいそうに………」



 紅は自らの唇から漏れたそれに驚動した。



 例えば自分の足元にうずくまり命乞いをする敵の忍び。何の感慨もなく踏み潰すようにして息の根を止めた。

「あ~あ、カワイソウ」

 同僚のくの一が、となりで冷やかすようにして笑った。

-カワイソウニ

 それは愚かな弱者にのみ向けられる言葉だと、ずっと思っていた。



 これほどに、愛しい感情をあらわす言葉だと、思ってもみなかった。



「………」

 僅かに開いていたイルカの両眼が緩慢に閉じられてゆく。

 目じりに溜まっていた涙が重力に負けて零れ行き、白い枕に跡をつけた。

 涙の行方を見守って紅は、薬品くさい包帯が不器用ながらも丁寧に巻かれたイルカの胸元に、自らの頬を寄せた。呼吸で上下する胸の下から、確かに心の臓器が鼓動音を発して機能している。

「大丈夫……怖くないから…」

 気がつけば、握るイルカの手から震えは消えている。

 

 いつしか紅も、薬品と血の臭いが残る包帯の上で、眼を閉じていた。

 空いた手で掛け布を手繰り寄せ、自分の肩ごとイルカの体を包む。



 そしてそのまま裸の体を、寝台とイルカに預けて、眠りに落ちる。





 朝陽ば窓から差し込むまで、その温もりがやってくるまで、

 二人分の体温を分け合いながら眠る。



 夢の中で、何度もイルカの名を呼んだ。

 









「なーんて……。語っちゃったかしら」

 それまで切なげに細められていた黒い両眼が、ふと悪戯をした子供のごとく丸くなった。それを機にカカシは長く、深い息を静かに吐いた。

「だってさー、もうカワイーのよそれが」

 いつもしているように、紅は女特有のかしましい口調で笑っている。

 だがその両目は、医療院の寝台の上で死んだように眠るイルカから離れずに、そして穏やかな光を宿したままだ。

 たった一度、茶化す素振りでカカシを見やったが、すぐにそれは背けられる。

「物凄いヤセ我慢ばっかりしちゃってさ。そのくせ、『母さん』だなんて、キャー!もうどうしましょう」

 口調は笑っているが、あくまでも紅の瞳の中に宿る色は、笑ったソレではない。

 彼女なりの、照れ隠しなのだろうと、カカシは思う。

「ずっと一人で耐えてきたのよね。友達は多そうだけど、でもそれは彼が与えるモノに皆が甘えて寄りかかっているのであって、本当に彼を助けられる『トモダチ』なんて一人もいなかったんだわ……」

 そこで紅の視線が再びカカシを向いた。

 あんただってそうよ、と口調が低く厳しいものに戻る。

「私だってそうだった…のかも」

「え…?」

 

 優しい人、だなんて言われたのは

 初めてだったから。



「好きなんでしょう?」

 自分の想いを後ろ手に隠して、カカシに問うた。

 存外に素直で、彼は首を小さく縦に振る。同時に、首筋にくすぐったさを感じて紅は小さな苦笑を漏らした。

「でも、中途半端な奴に、うちの子をくれてやる訳にはいかな~いのよ」

 カカシの口調を真似して、再び紅の声調に茶化した色が表れる。

 呆けたように眼を丸くするカカシに向かって、指を立てた。

「何だ、おまえが姑か」

 肩の力がようやく抜けたカカシの苦笑。

 誇らしげに、自慢するように、紅の唇端が子悪魔的に上がるのを見たからだ。

「そうよ。何たって私は「母さん」だものね。少なくともあの時は、本当に何がなんでも守ってあげようと、思ってたし…」

 似合わないわよね。

 また、苦笑した。

 わずかに開いた窓から風が通り過ぎてゆく。

 白い絣の窓幕が揺れて波を描いた。

「ここは素直に、「お嬢さんを下さい」と頭を下げるのね、カカシ」

 扉近くに身を凭れかけていた彌岬が笑う。

 えー?と眉を困ったように下げたカカシが振り返ると、彌岬は意地悪な笑みを浮かべて目を細め返した。

 手ごわい姑二人に挟まれた形でカカシは諦めに似た深いため息をつく他なかった。





 部屋を出て行こうとする彌岬が、敷居を跨いで最後にカカシを振り返った。

「どうするの?目が醒めるまでここにいる?」

「…」

 少し迷って、カカシは振り向く。

「……いや、帰るよ」

「私も帰るわ」

 寝台脇の椅子から腰を上げて紅も扉の方へと歩を進めた。

 きっとこの人は、こうして弱っている所を見られたくないであろうから。

「それに、卑怯だしね。こういう状況を俺が利用しているみたいで…」

 そう、カカシは言う。

 カカシの脇を通り過ぎて紅は鈴が鳴るように笑った。

「そうそう。自分から相談してくれるようになるまで、ま、せいぜい頑張るのね~」

「るさい、魔女め」

「なんとでもお言いなさいな」

 女二人が笑い声を上げながら、扉の向こうへと消えていった。

 豪快な笑い声が廊下の向こうへと遠ざかってゆく。

 悔しいが、きっとあの二人にはまだ到底敵わないのだろう。

 どこかでそう悟っているカカシは肩でため息をした。



 静かになった室内。

 窓から侵入する風が冷たくなってきている。

 カカシは踵を返して窓に歩み寄った。静かに窓を閉め、差し込む西日を避けて絣の窓幕を一枚引いた。

 室内が、薄橙色に包まれる。

 まるで日暮。

「…………」

 カカシは寝台に歩み寄る。

 腰を屈めて、イルカを覗き込んだ。

 寝息は規則正しく、静かで穏やかだった。

 包帯や傷跡は痛々しいが、もう大丈夫だろうと安堵できた。

 きっと三日後くらいにはいつもどおりに教鞭を振るい、受付で笑っているのだろう。

 うずく傷を隠しながら。



 恐る恐る、手を伸ばしてイルカの額に触れた。

 目覚める気配は無い。

 子供にするようにして数度撫でてみる。

 イルカの閉じられた目端がくすぐったそうに僅かに動いた。

 びくりとカカシの指先が額から離される。

 壊れ物を触っている気分でカカシは手を引っ込めた。



「甘えてばかりですみませんでした…、イルカ先生」

 邪気の無い寝顔のイルカに、語りかける。聞いていないであろうが、気にしない。

 むしろ、聞いていては困る。こんな恥ずかしい台詞は。

「トモダチ顔していい気になってましたけど、俺はそれ以下でしたね。貴方がそこに存在するだけで嬉しい、だなんて……身勝手でした」

 らしくない台詞の連続で、自然と頬が上気してくるのが分かった。

 サスケやアスマあたりに聞かれでもしたら、何を言われるか分かったものではない。

 でも、

 本心。本気だった。

 自分一人で照れながら後頭部をガリガリと掻き毟った。

「でもやっぱり俺は、イルカ先生が好きです」



 好きです。



 もう一度、繰り返した。





「だから…」

 雲がかかったのか、急に西日が影をよぎらせて室内が暗くなった。



 カカシの両手に、強く拳が握られる。



 強い風で窓が揺れて音を立てる。





「俺は貴方をこんな風にした奴らを許さないでしょう………」



 風に押されて雲の流れが速い。

 神経質な音をたてた硝子の音はやがて止み、

 雲が晴れて再び西日が室内を穏やかな色に包み始めた。



 カカシはイルカから踵を返して扉に手をかけた。

 



 快気祝いしましょうね





 のんびりとした口調でそう言い残して、

 静かに扉が閉められた。






終わり
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2005.10.25.Tue/14:05
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Author:北野ふゆ子
> 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。 得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。

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