スポンサーサイト 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--.--/--:--
  砕壊-さいかい- 


砕壊 <さいかい>  前編





 灰色に濁った意識から急浮上すると、窓から差し込む白い光が眼に刺さった。

 その痛みにまず眉をしかめ、次に腰にかかる重圧に舌打ちする。



 体を起こしてみれば、そこはあまり見慣れぬ風景。

 薄暗く、狭い部屋。

 雨戸が開け放たれた格子窓からの光に眼が慣れた頃に辺りを見まわせば、そこがアカデミーの第二書庫である事が認識出来た。

 壁の時計を見れば、朝の六時。

 教師や生徒がやってくる時間まではまだ大分ある。

「……何でこんな所で寝てたんだ………?」

 鼻の頭を掻きながら溜息。

 ぞくりと寒気を覚えた。それもその筈、脱ぎ散らかされた衣服の一部が、窓の下に見える。



「ああ…そうか………俺………」



 徐々に甦ってくる記憶と共に、吐き気と嫌悪がこみ上げて来た。

 両腕で自らの体をかき抱く。

 寝汗で湿った自分の体さえも、気味が悪いように思える。

 

 網膜にちらと映る、記憶の断片。







 燃えるような、銀







 -イルカ先生







「やめろ……っ!」



 空虚に向かって、憎悪を吐きだした。





 その声で、俺を呼ぶな……と。



















 全身にまとわり着いて消えない虚ろで険悪な記憶が薄れてくる頃。



 もう何日、何週間が経ったか分からない。



 網膜に焼きついて離れなかった銀色の影は、もう見えない。



 アカデミーでの平凡な日常に包まれて、何事も無い日々が続いていた。

「イルカ先生ー」

 自分の名前を呼ぶ、いつもの声が、左右から飛ぶ。

 今日は一際大きい声が、イルカを呼んでいる。

「おう、ナルト」

 黄色い頭の少年が、長い廊下の向こうから駆け寄ってくる。

 その後ろには、

「サクラとサスケも。久しぶりだな~、元気か?」

「先生こそ、しばらく見ない内にまた独身男の哀愁が濃くなって来たわね」

「余計なお世話だ」

 額当ての上からサクラの頭をぐしゃぐしゃとイルカが撫でる。くすぐったそうに照れ笑いするサクラを、横からナルトが頬を膨らませて見ていた。

「今日の任務は上がりか?」

 イルカは壁の時計を一瞥して、ナルトの視線を移す。

「うん。これから報告書を出しに行くんだってば。イルカ先生、今日は受付じゃないんだ?」

「まあな。中間試験が近いから、準備に追われててな」

「追試用の問題だって作らなきゃいけないし」とナルトを指して付け加えれば、隣からサクラが鈴を転がした様に笑った。

「じゃあ」と会話を切り、中腰の姿勢から立ち上がると、

「もう任務報告に行って来い」

 と右手を振った。

「あ、うん…」

 それに対し、何故かナルトは声を弱めていぶかしげに眉を寄せる。

 その後ろで、サクラとサスケも、ぽかんとした様子でイルカを見つめていた。

「?」

 逆に今度は、イルカが当惑気味に眼を見開いて小首を傾げる。

「…どうした?」

 と問うイルカに、ナルトは物憂げに口を開いた。



「先生…ケンカでもした?」



 背後をちらちらと気にしながら、遠慮と心配を含んだ物言い。

 ナルトには珍しい。

「ケンカ?お前じゃあるまいし」

 一笑するイルカ。

 特に怪我をしているわけでもないのに…と自分の腕や足元を見渡す。

 何だよ突然…と苦笑の後、

「俺が誰とケンカしてるって?」

 と継ぐ。

 途端、波が退いていくように、ナルト、サクラらの顔に影が差した。

 だが、その影を振り払うようにサクラは再び笑顔を作ると、

「ううん、何でもない。じゃあ、任務報告、行くね」

 バイバイ、とナルトの首ねっこを掴んで、廊下の向こうへと歩き出す。

 それに逆らおうとせず、ナルトも大人しく着いて歩く。その傍らに、サスケも。 

「……何だぁ…?あいつら………」

 放課の時間が迫っていた。

 アカデミーの子供達が授業を追えて廊下を行き交う流れに逆らって、三人の影が廊下の向こうに消えていった。

 それを見送り、イルカは昇華しきれない疑問を抱きつつ、「まあ、いいか」と短い溜息を残し、その場を去った。







「何じゃ、イルカ…お前、仲違いでもしておるのか」

「え?」



 派遣書類の提出に火影邸に出向いたイルカ。

 それを実務室にて出迎えた火影の、事務的な言葉の後に続いたのが、それだった。

「いいえ…?三代目まで……。何故ですか?」

 提出書類を一部ずつ整理しながら、イルカは苦笑する。

 簡素な作りの実務室内は他に人気がなく静かで、イルカのその声だけが響いていた。

「いや、心当たりがないなら、良い。ご苦労、下がってよいぞ」

「はあ」

 疑問だけが漂うまま、ろくに挨拶も出来ぬうち、イルカは火影邸を後にする。

 一度、後ろを振りかえって首を傾げ、そしてまた歩き出す。

「…何なんだ一体………?」

 夕空の下、自分以外に誰もいない畦の一本路を、イルカは一人、歩いていく。

 影が、長く細く、伸びていた。

 それの先端を踏む人影に気づかずに。







 近しい誰かに会えば、

「どうしたの?」

 親しい誰かと話せば、

「何かあったのか?」

 その度、イルカは「いえ、別に?どうしてですか?」と同じ事を繰り返す。

 対して返ってくる応えは「ああ、いや…何でも」と曖昧なもの。

 それも数度を超えると、さすがにイルカも腹立たしく感じてきた。

「…最近……俺がどうしたって言うんだ……」

 数日も経つと、次第に奇妙な質問をしてくる人の数は減った。

 だが蓄積していく疑問に肩こりを覚え、イルカは大きな溜息。

 昼休み、アカデミーの屋上で遠方に連なる山脈を眺めて一人、黄昏れる。屋上で昼食をとっている女子生徒達からは、「せんせー、フラれたのー?」とあらぬ詮索の声を掛けられる始末。

「そんな事より、中間試験の結果を心配してろよ」と笑顔で返すものの、苦笑にならざるを得ない。

 昼食を摂る気も起こらず、柵に両腕かけ体重をあずけて遠くを眺める。

 試験シーズンも終わり、一通り、多忙のピークを越したこの最近は、教師にとってぽっかりと空虚の様な体休め期間でもあるのだ。



 …ただ、例外はいくらでもある。



「おお、イルカ先生、こんな所に」

 屋上の扉が忙しなく開かれ、その音にイルカが振りかえると、白高帽に僧のように長い白装束を見にまとった男がそこにいた。任務や祭事、政り事の管理を司る公務員の制服だ。

「何か御用ですか?」

 受付業務に携わっている為に顔馴染みであるその公務員に、イルカは笑みを向けた。

 男は安堵の表情を浮かべて「探していたんですよ」と駆け寄ってくる。

「実はお願いがあって…」

 切りだしにくそうに苦笑する男の手には、小さな巻物が握られていた。

 任務依頼書である。

「どうしても手の空いている戦闘員中忍がいなくて…」

 やむを得ず、専任教師に役目が回ってきた、という訳である。

 他にも専任教師の中忍は居る筈であろうが、顔馴染みとあっては無碍に断るわけにはいかない。

「いいですよ」

 二つ返事で了承する。

 男は途端に顔を明るく輝かせると、「ありがたい」と「悪いのう」を繰り返し、何度も頭を下げてイルカに巻物を手渡すと屋上を去っていった。

 遠撒きに、女子生徒達が珍しそうにそれを眺めていた。



「任務か……久しぶりだな…」

「まあいいか」といつもの口癖を漏らし、イルカは巻物を開く。

 最初に眼に入った文字は、「B級任務」。

「護衛任務……」

 依頼書には他に、依頼人である護衛対象者の名前、行き先、報酬内容が記されている。

 依頼人は、木の葉に商行業で来ていた未苑の国という木の葉の衛星国の一行。商取引の成果を狙う山賊を警戒しての護衛依頼だという。

 とはいえ、日帰りで行ける距離。木の葉の住人であるイルカには、地の利もある。

 最低限の装備を身に、イルカは依頼人が待つ任務受付所に足を運んだ。

 依頼人に対面する前に受付員に手渡されたのが、商人装束の一式。黒装束の忍びを連れて歩いていれば、おのずから賊を招き寄せているも同然だからだ。

「イルカ先生って何でもお似合いですね」

 悪気の無い笑顔で、同僚の受付係はそう言ってのけた。

 額当ては懐に隠し、イルカは代わりに絣布を額に巻く。領、袖口を黒色の布で縁取った深緑のひとえを着、皮帯を腰に巻いて刀を差し、その上に大帯を巻く。

 元来、容貌が地味な部類に入るので、イルカにとって変装は得意分野だった。下忍時代、そう上忍に誉められて複雑な思いをした事を思い出す。

「誉め言葉として受け取りしますよ」

 同僚の言葉とあいまって、イルカは苦笑を漏らた。



 対面した旅の一行は、初老に近い男が二人、若い商人が二人、そして少女が一人の、合計五人だった。

 未苑の国は、絹織物の質に定評がある。この商人達は、そうした織物商品を木の葉でさばいて来た所だという。少女がまとっている青色鮮やかな装束も、その生産品だという。なるほど、美しく彩られた少女を見れば、商品の売れ行きも想像出来る。

 行きには多くの反物を積んでいた荷車も、帰りは金銀を含む褒物の山。反物の場合は材木と紛れさせ、街道沿いに運ぶ事が出来たが、これでは賊に襲ってくれと言わんばかりである。

「来週になれば、数回にわけて木の葉から未苑へ工材運搬が行われます。それに紛らせ、数回に分けてこれらを運んではいかがですか?」

 安全を念に入れ、イルカが提言するが、商人達は

「それが…次の商行の資金繰りが急を要していて…どうしても今日明日中には……」

 と真摯な面持ち。

 これもまた、二つ返事でイルカは出立を決める事になる。

 木の葉から未苑を始めとする各衛星国までは大街道が走っており、そこは商業の路として人通りも盛んだ。森に入る訳でも無し、日中に堂々と賊が襲ってくる事はまず無い。

 今回、中忍一人がこの護衛任務にあてがわれたのも、その理由からだ。









砕壊<さいかい> 中編



 

 街道を歩いて数刻。



 天候が芳しくない。

 頭の真上で、低い雷雲混じりの黒雲が、風の無い空に居座っている。



「一雨来そうですな…」

 と空を見上げてぼやく依頼人である初老の商人、センダンの傍らで、イルカは街道に沿って視線を巡らせていた。

 センダン達は、雨によって褒物や自分自身が濡れる事や、悪天候による遅延を恐れているが、イルカは雨によって人通りが少なくなる事、また、雨を少しでも避ける為に林を通らざるを得なくなる事によって危険性が増す事を危惧していた。

 だが、こういう時に限ってイルカの期待は裏切られるのだ。

 ものの数分もしない内に、夕立のように雨が突如強さを増して降り出したのだ。

「そこの宿場で雨避けをしましょう」

 街道の途中、林の入り口に立てられた比較的大きな宿場を指差す。

 今まで街道を歩いていた旅人や商人達も、一様にそこに駆けこんでいく姿も見られたからだ。

「だが…車は入らんよ」

 他にも荷車を引いている者がいるために、狭い入り口ではセンダン達の荷物までは入りきれない。

「大丈夫です。裏の軒下に置かせてもらいましょう」

「しかし…」

 渋がるセンダンを引っ張り、イルカは車を宿場の裏館の軒下、雨を避ける場所に車を置いた。

 そして懐からくないを三本抜き出すと、車を囲むように地面に刺した。

 当惑する様子でセンダンやその姪である少女、紅絹が見守る中で、イルカは印を結ぶ。

 最後の言霊と同時に白煙が立ち込めると、煙が退いた跡から、車の姿が跡形も無く消えてしまった。

「何を…」と慌てるセンダンに、イルカは笑顔で応える。

「忍術の一種です。ご安心下さい。ここに異空間を作りだし、荷車を他の目に映らないようにしたんですよ。動物の、擬態みたいなものだと思って下さい」

 納得と不理解が半々に共存する面持ちで首を傾げる依頼人達。彼らに向けて、イルカは再度、微笑と共に応えた。

「大丈夫ですよ。雨が上がるまで、宿場で休憩をとらせていただきましょう」

 軒先や宿場の大広間では、多くの旅人や商人達が女将に熱い茶や軽食を振舞ってもらっている。各々、冷えて疲労した体をいたわるように。それを見て、センダン達の表情も和らぐ。濡れた体を拭きながら、先客で混雑する大広間を避け、軒先に向かおうと歩き出した。

「お待ち下さい」

 それを、

 イルカが背後から呼び止める。

「大広間に行きましょう」

 とのイルカの発言に、センダンらは眉をしかめる。

「しかし…あそこは既に人でいっぱいだし…」

 もっともな依頼人の言葉だが、イルカは柔らかい表情のままで首を横に振った。

「万が一の為にも、大広間の方が好都合です」

「…何故だね」

「この様に、天候の不具合によって一箇所に商人や旅人が固まるのは、賊にとってはかっこうの餌食となります。しかし、裏を返せば、我々にとっては格好の隠れ蓑にもなり得るんです」

「…どういう事?」

 紅絹が問う。

「上手く行動すれば、ここに居る全員が、我々の盾となるからですよ」

「………」

「ですから、人数の少ない軒先より、こうした人の多い大広間、そこの四隅を避けた出入り口から見て中央よりやや後方あたりにいるのが、死角になりやすくて助かる確率が多い。もし、我々が目をつけられても…その前に座っている人々を盾に……逃げのびる事は、容易です」

 納得げに肯くセンダン達。だが、その後ろで、紅絹は瞳に影を落とす。

 それに気づき、イルカは言葉を止めた。

 任務における事務的な説明であったとはいえ、配慮が足りなかった自分の失言に後悔する。

「すみません」と頭を下げるイルカに、初老の依頼人は

「言う通りにするよ」と笑んだ。

 尚も当惑気味に目を丸める紅絹に、イルカは再び「気分を害されましたね」と謝罪する。だが、それを否定して紅絹はようやく表情を和らげた。

「違うんです…ただ、ちょっと意外だっただけで……」

「意外?」

 大広間、イルカが示した位置に一団は腰を下ろす。座る位置も、イルカが指定する。

腰を下ろしながら、イルカが紅絹に問い返した。

「ええ…、だって……あ、ごめんなさい、あまり気にしないで下さい」

 言いかけた言葉を飲み込んで、紅絹はそれを誤魔化して笑う。

 立場上、それを執拗に問い掛ける事が出来ないイルカは「そうですか?」とだけ答えて微笑を返す。



イルカは正面入り口を右手斜めに見えるように腰掛けた。そして依頼人達を、正面入り口から見て斜めに横顔が見えるように座らせる。万が一に賊が押し入った場合、あからさまに背を向けるのは彼らの興味を引くだけだからだ。そしてちょうどその死角になる位置に紅絹を座らせた。

間も無く、女将が白湯と粥を運んで来る。

イルカは粥を遠慮し、白湯だけを受け取り、少しずつ口をつける。

湯気の向こうに、大広間の様子が陽炎の様に揺れている。取り越し苦労である事を願いながら、戦う際、逃げる際の方法を考えた。すぐ前方に腰を下ろしている、同じく商人と思われる一行。旅慣れしていないのか、目立つ大きな荷物を抱えたまま、輪を作って談笑している。まず、盾に出来るとしたらこの一行。

「………」

 部屋の中を厳しい眼光で見据えるイルカの様子を、粥を啜りながら紅絹は無言で見守る。

 そんな中、一通りの計算を終えたイルカはふと、小さく溜息をついた。内心で苦笑しながら。

(中忍教師に役目が廻って来るような任務に……まあまず、殺傷沙汰は起きないだろうけどな……)

 さもなければ、戦闘経験の薄い一教師に任務など廻って来るはずは無いのだ。

 だが、教師という職業柄、生徒に教えている以上は自分も理論通りに実践しなければならないような気がしてならない。撮り越し苦労で終わる場合が殆どとはいえ。

しかし、イルカを始めとする教師達は、一見実戦から遠のいている身分上、戦闘員として軽んじられる事しばしだが、戦闘知識、策略知識、生存術知識など、忍びに必要な一通りの術と知を体と頭に叩き込まれているのだ。それはあまりに安売りだと言えよう。



内心、どこかで残念がる自分がいた。

「簡単な任務ばかりでつまんないってばよー」

 と駄々をこねるナルトを、

「任務が無事に、簡単に終わる事に越したことは無いんだ」

 と諭す自分の言葉を思い出す。

(俺はまだまだ…ナルトと同レベルか…)

 自問自答に自ら苦笑する。



 その苦笑も、次の瞬間には掻き消えた。



「……………」

 白湯椀に口をつけたまま、イルカは視線だけで正面入り口を見やった。

 その視線に気付き、紅絹がイルカの目線を追って同じく正面入り口を振り向いた。そこには、廊下の向こうを忙しそうに走っていく女将の影が映るだけ。

「……どうなさった?」

 異変を悟ったセンダン達も、緊張した面持ちで談笑を打ち消し、小声でイルカに問う。

(…………賊………………)

 それには応えず、イルカは白湯椀を静かに盆に置くと、人差し指を唇に押し当てた。

「………」

 沈黙を促すその合図に、紅絹もセンダンらも口をつぐんだ。

 イルカは周囲に気付かれないよう、小声で囁く。

「決して慌てて立ち上がったり、うろたえないで下さい………」

 息を呑み、それに従う依頼人達を前に、一呼吸を継いでイルカは

「殺気を纏った気配が…近づいてきます…」

「賊ですか?」

 イルカの遠まわしな表現に、依頼人は極力小声で、低く、言い換えた。

 頷くイルカ。紅絹の目色が変わった。

 他の若い商人らも、唇を噛んで身じろぎを抑える。

「……野武士…という所でしょう。抜け忍の類では無さそうです……しかし……人数が………」

 荷物の大きさと、相手の人数規模を考えると、直ちにここを立ち去って行くのは困難だ。

 しかも、外は悪天候。いくらも行かない内に追いつかれて標的にされてしまうだろう。

「……」

 イルカは懐から小指先ほどの大きさの小袋を取り出すと、それを握りつぶした。

 中に封じ込められていた微細な粉末が、空気にのって大部屋中に流れる。

 忍びの嗅覚にしか感じ取れない、微小な香りが一瞬、漂う。

 もう一度、部屋中を見渡し、イルカは溜息を軽くついた。

(忍びは俺一人か……)

 町人などに変装して任務を行う際、その場に同郷の忍、または友好関係にある里の忍が同じく紛れていないかどうか暗に確かめる方法がいくつか存在する。

 合言葉や、印、笛など。

 今イルカが使った香袋も、その手段の一つだ。

 反応が何も無いところを見ると、共に戦える忍は存在しないようだった。

(………戦うか………?)

 気配の近づき方から、敵は忍術を使う輩では無い。城抜け、または落ち武者の成り果てである野武士か野ぶせりか……。

(相手が忍者でなければ、勝ち目はあるな……)

 近づいていた気配が、動きを止めた。

 恐らく、街道沿いに立つこの宿場を、林の中から眺めて襲撃の機会を見計らっているのだろう。

 忍びで無いとはいえ、敵は戦い慣れている。

 ここでイルカがむやみに何かを仕掛けようと動けば、それと気配を察せられてしまう。

 イルカは息を細め、背中で感じられる気配を読みつづける。

(人数は…五…八……十…十五人か………)

 最後に、イルカは緊張を帯びた厳しい口調で、依頼人達に宣告した。



「いいですか…?決して、慌てないで下さい。動かないように……」



「……っ…」

 それに依頼人らが頷き終わらない内に、



「!」

「きゃああっ!」



 至近距離で爆音が轟いた。



 弾けるように腰を浮かして立ち上がる人々。

 その中で、イルカ達だけが、腰を下ろしたままだった。

 甲高い女の悲鳴と共に、

 大広間の襖が蹴倒された。

 侵入者の姿が現れる前に、長い刃が一閃。

「いやああああっ!」

 それと同時に、襖付近にいた数人の旅人が、血液を噴出して真っ二つに斬れ、その場に崩れ落ちた。

「ひっ!」

 喉の奥で悲鳴を上げた紅絹が、隣に座る若い承認の袖を掴んだ。

 紅絹は健気にも、大声を上げかけたところを懸命に押し殺した。

「……」

 それにしても…とイルカは胸内で呟く。

 大ぶりの刀が入り口の襖を雑断すると、そこから雪崩れ込むように男達が押し入ってきた。

 大広間に悲鳴が次々と上がる。

 それを楽しむ面持ちで、先頭に立つ男が、血にまみれた「何か」を人々の前にかざした。

「……女将ッ…!」

 素人である人間の目にも、それが変わり果てた女将の姿であると、すぐに気がついた。

 恐怖の叫声が再び上がる。

 襖の向こうに見える宿場の軒先には、すでに屍と化した人影がいくつか見える。



 見せしめだ。



「こうなりたくなかったら…大人しく荷物を渡すんだな……」

 ごとり、と音を立てて、男の手から女将の体が床に落ちた。水を含んだ袋が破けたかの如く、そこから溢れる赤い液体。

 それがますます、人々の恐怖を誘う。

(………野武士か……)

 いかにも人を殺し慣れたその仕業を、イルカは細かく観察する。

(…画策も何もあったものじゃない……こりゃ…荷物を奪ったとたんに皆殺しにされるな………)

 イルカは聞こえない舌打ちを口内で噛み潰す。

 そして、

 出したくなかった最悪の「答」を、



 イルカは出さざるを得なかった。





 割り切るんだ…



 これは、





 「任務」だ…





 今の自分がやるべき事はただ一つ。





 依頼人「だけ」を守れば良いのだ。





(「依頼人の護衛」を完遂するには……ここにいる人々を盾にすれば………)



 忍びならば当然の様に出す答えだ。

 どう計算しようとも、自分一人である限り、それ以外に道は無い。



 敵が依頼人達に近づかない内に、大広間入り口と軒先に固まっている敵に向かってイルカが攻撃を仕掛ければ、人の盾によって依頼人が死傷する確率はきわめて低くなる。



 それはつまり、



 今だ。



 大広間入り口で怒鳴り散らしている敵から死角になる様に、イルカは懐からくないを抜いた。

 依頼人であるセンダンや紅絹達が、はっと目の色を変えた。

 イルカは小声で、唇を分かり易くゆっくり動かして、一言ずつ、告げる。

「ここを、絶対に、動かないで下さい……」

 血の気が引いた面持ちで依頼人達が頷くのを見守ると、イルカは目を細めて微笑んだ。



 紅絹の目にイルカの笑みが映った次の瞬間…



「っふ…!」

 体を翻して振り向くと、イルカは低い姿勢からくないを二本、大広間入り口に向けて投げつけた。

「ぐふっ!」

 詰まった声を漏らして、首筋にくないが突き立った敵の体が二つ、ゆらりと揺れた。

 その体が床に倒れ落ちぬ内に、イルカは腰から刀を抜き出すと、低い姿勢のまま駆け出した。

 倒れ行く男の体が死角となり、その背後にて武器を構える敵の反応が僅かに遅れる。

「な…!」

 倒れかけた二つの体の間から突如現れた黒髪の男の影に、野武士達は引きつった悲鳴を漏らした。咄嗟に突き出した大長刀を振るう。

 金属がぶつかり合う耳障りな音が響く。

「何だこいつ!」

 大長刀を持つ手の懐にもぐりこんだイルカの体。

 次の瞬間には、イルカの刀が大長刀を握る野武士の両腕を切り落としていた。

 切り口から血を噴出して絶叫する男の長刀を奪い、そのまま膝をおる男の胸元にむけて一直線に突き刺した。

 心臓を突抜かれた男は、床に縫い付けられる体勢でそのまま即死。

「小癪な!」

 軒先から大広間に駆けつけてきた五人は、出入り口に立ちふさがる。

 その更に背後には、軒先を固めるように数人が二重になって取り囲んでいる。

 イルカの動きが止まった。



(何とかしてあの中に潜り込んで外に出られれば……)



「……」

 野武士の一人が、宿場の主人だろうか、初老の男を後ろ手に捕まえていたのだ。

 人質だとでも言うのだろうか。

「……」

 野武士に腕を捕まれた男は、すがるようにイルカに視線を向けてくる。

 イルカは下唇を噛んだ。





イルカ先生

割り切ったほうが、楽ですよ……





「……っ!」

 突然脳裏に響いた声に、反射的に手が動いた。

 懐からくないを抜き、加減せずに人質を抱えた野武士に投げつける。

「が!」

 くないは人質の首筋を掠めて野武士の喉元に命中した。

「おのれ!」

「こいつ…っ!」

 崩れ落ちる男めがけてイルカは再び低い体勢で駆け出した。

イルカを狙った刃が襲い掛かる。それを誘い込むように、イルカは悲鳴も上げられずに竦む宿場主人の背後に回った。

「っ!」



 「ヒッ!!」



 鳥が首を絞められた様な断末魔と共に、宿主人は串刺しとなり絶命した。

 主人を盾に、その背後から落ちていた刀を拾い上げ、イルカは再び野武士に向かって身を躍らせる。

「ぐあっ!」

 老人に刃を突き立てた野武士の首を打ち落とす。

 大広間中から、また悲鳴が上がった。

 手と頬に返り血を浴びたイルカはその場に着地。

 間をとって当惑の表情を浮かべる野武士らに向き合って、ゆっくりと立ち上がった。

「っ…はぁ…はぁ…」

 僅かに、息が上がっている。

 イルカの見据えた目を受け、歯軋りと共に、野武士が吐き捨てた。

「人質を見殺しにするとはな……!」

「商人を装った武士かと思えば……貴様……」

 死体に突き立つくない。

 そして、明らかに武道、武家徳から逸脱した戦い方。

「忍びか……!」

 「任務」のみに忠実であり、その時請け負っている任務遂行のためならば、昨日までの友も、今日の敵とみなす機械人形。

 武人らの間では、「忍び」はそううたわれていた。

 弾かれるように顔を上げた野武士の一人が、背後から叫ぶ。

「偽装した忍びなら…ここのどこかに『主人』又は『依頼人』がいるはずだ!」

 その言葉に、イルカは野武士らに向けていた視線を、ちらりと大広間の左隅に一瞬、動かした。

「そいつらか!」

 イルカの視線に、二人の野武士が大広間の左隅に固まっていた旅人一向を振り替える。

 肩をびくつかせ、「ひっ」と声を上げる旅人達。

 そこに向けて刀を突き出そうとする野武士。

 だが、それより早く、

「っ!」

 イルカがくないを旅人に向けて投げつけた。

「が…っ!」

 旅人の一人が絶叫。

「何…」

 一瞬怯みをみせた野武士の動き。イルカはその隙に距離を縮め、野武士刀を叩き落とした。

 そして再び、首が落ちる。

「卑劣な…っ!」

 咄嗟に、野武士が小刀をイルカに投げつけた。

 イルカが首一つの動きでそれを避けると、流れ弾となったくないは、イルカのすぐ背後にいた旅人に突き刺さる。

 そのすぐ奥にいた依頼人達は、無傷。

 正に、「人間の盾」だった。





 割り切った方が楽ですよ





(五月蝿い)





 ねえ、イルカ先生…





「五月蝿い…っ!」









 額から鼻筋に伝わってくる生暖かい感触に、イルカは我に返った。



「………っは……」



 指先で鼻の頭をなぞる。

 血だった。

 血の筋をたどって額に触れてみる。

 傷は無い。

「返り血……」

 足元を見れば、野武士の首。

 そして目の前には、首の無い体。

「う…わっ!」

 イルカに向かって崩れかかる、大柄な体躯。

 咄嗟に後ろに飛びのこうとするが、脱力しきった両脚が言う事をきいてくれない。

 首の無い体を抱くようにして、イルカは床に崩れ倒れた。

「しまっ……」

 無我夢中で床に落ちているくないを手にとり、下敷きになったまま宙に向けて構える。

 だが、

 襲い掛かってくる気配はない。

「……?」

 床に倒れたまま辺りを見渡せば、イルカを取り囲むようにして倒れる幾つもの死体。

 野武士のものだけではなく、旅装束のものまで。

 畳は血を吸って変色しており、何やら焼け焦げた臭いまでしてくる。

「大丈夫ですか…っ」

 少女の声に首を返せば、

「……」

 駆け寄ってくる紅絹の足が視界に入った。

「…終わったんですか……もしかして」

 両手両足を畳に投げ出したまま、イルカは紅絹に向けて呟いた。

「…え?」

 水溜りを覗き込むように上からイルカを見下ろす紅絹の瞳。

 戸惑いを見せていたその表情に、笑みが浮かんだ。

「…終わりました……」

「…………」

 センダンらに助けられ、死体の下から起き上がると、イルカは床に腰を下ろしたまま、周囲を見渡した。



 部屋の隅では、生き残った旅人達が身を寄せ合って震えていた。

 顔を血でぬらすイルカに、戦慄と恐怖をたたえた瞳を向ける。

「よっ……と……」

 イルカが立ち上がると、一様に肩をびくつかせる。

「……」

 溜息を飲み込んで、イルカは彼らに背を向けた。

「大丈夫かい」

 と紅絹の後ろから駆け寄ってくるセンダン。

 「依頼人」は、いずれも無傷だった。ただ、いずれも浮かぬ複雑な面持ちであるのは仕方が無い事かもしれない。

 気を使ってか、紅絹が手拭をイルカに手渡そうとする。それを遮って、

「……一人足りませんね…………」

 とぼんやりとイルカが呟いた。

 視線は、紅に染まる大広間の床。

「え?」

「野武士の死体………」

「…逃げて行きましたけれど……」

 と紅絹が指差す方向は、軒先から街道に出た向かいの林。

 雨は上がっていた。

「………」

 イルカは己の迂闊さを内心で罵る。

 いつ逃がしてしまったのか、皆目覚えていない。

 戦いの途中、完全に意識が飛んでいた。

 見れば外の天気は回復している。あれほどの大降りがいつの間に…。

「…はぁ……」

 肩で大きく溜息をつく。

 だが、すぐに決心してイルカは顔を上げた。



「すぐに出ましょう」



「仲間を連れ戻って来る前に……彼らは腐っても「武士」です。殺られた仲間の仇は許す筈がない……」













 血で汚れた商人装束を宿場の竈に放り込んで焼き捨て、イルカはやむを得ず、黒の上下のみで残りの任務にあたる事にした。

 いわゆる、木の葉忍者の制服で、防弾上着を取った状態である。

 体を洗っている時間も惜しい。

 全身にさびの臭いを残したまま、イルカは荷車を裏から引っ張り出してくる。

 いそいそと身支度して旅立とうとするイルカ達の様子を、大広間の惨状にいまだ腰を抜かしたままの旅人達は、ただ眺めているだけ。

「イルカさん?」

 軒先から踵を返して再び大広間に入っていくイルカの後を、紅絹が追った。

 部屋の隅でかたまっている旅人達の前に歩み寄ると、イルカは肩膝を着く。

 獣か魔物か鬼を見るような怯えた目で、旅人は息を止める。

「もし、彼らが戻ってきたら……」

 伏せた視線の下から、イルカが静かに、ゆっくりと言う。

「この野武士を殺した輩は街道で東に向かった…と仰ってください」

 これで、もし野武士が仲間を連れ戻っても、残った人々が殺される可能性は減る。

 広い街道に出てしまえばまだ、戦い易いというところだ。

「う…ああ…」

 言葉にならない声で、旅人達は何度も頷き繰り返した。

 彼らを残し、イルカ、センダン達は荷車を引いて再び、晴れ始めた街道を歩き出した。



 交わす言葉は、極力少ない。

 いずれもが、焦燥の色を顔全体に浮かべ、これから死刑台にでも向かうような重苦しい空気を背負っていた。

 誰もイルカを否定、批判しない。雇っている忍びが命令どおりに事を進行させているのだ。依頼人側とすれば、何の文句がつけられようか。

 未ださびの臭いを撒き散らす黒髪の中忍を時折横目で一瞥し、センダンら未苑の商人らは、ただまっすぐにどこまでも伸びる街道の先と向かい合っていた。



 そして一刻も歩かない頃……、静かにイルカの足が止まった。



「やっぱり来ましたね……」



「……さっきの野武士ですか……?」

 紅絹が肩越しに後ろを振り返る。

 長い一本の街道。右側は林、そして左側は茶店や小さな宿場がぽつりと並んでいた。

 街道の向こうから、野武士の姿は見えない。

「林の方から、こちらを窺っています……人数は、先ほどより少ない様ですが…」

 靴の止め具を直すため、イルカはその場に足を止めた。そして静かに呟く。

「…腕は段違いの様ですね………」

「………」

 目を見開きつばを飲み込むセンダンら。

「…お、親方……」

 弟子だという若い商人が、焦燥した様子でセンダンを呼ぶ。

 振り返ると、林の陰から街道に降り立ち姿を現した、数人の野武士達。

 この距離。荷車を引いていては、逃げ切れるものではない。

「大丈夫ですよ」と微笑んで、イルカはその場から立ち上がる。

 足を完全に止めたイルカ一行に、野武士らも足を止めた。先頭に立つ体躯の良い男が、イルカに下卑た笑みを向ける。

 野武士とはいえ、身なりは旅武人に見えない事もない。街道を通り行く人々は、そこに生まれている殺気と緊張に気付かず、イルカらの傍を通り過ぎ、また、野武士らの脇も通り過ぎていく。

 その静けさが、逆に紅絹には突き刺さるように感じる。

 荷車に積んであった刀を手に、イルカは野武士に向かい合った。刀は鞘に収まったまま。

 並ぶ野武士の面々。

(居合が二人…両刀が一人……長刀が一人……そして大鉈…あとは打刀……)

「離れていて下さい。そうですね…そこの宿場に入っていて下さい」

 荷車を後ろ手で軽く押し、イルカはセンダンらにそう促す。

「わ、分かった…」と荷車をゴトゴトと押し、センダンと弟子達は宿場の軒先へと逃げていく。

「気をつけて下さいね!」と言い残す紅絹の袖を引っ張って。



「……」

 腰に差してあるくないの数を確かめる。

 生憎と火薬類は何も持参していなかったが、イルカは気にしなかった。

 このように開けた場所ならば、忍術も使い様があるだろうからだ。

(なるべく宿場から離れた方が良いな……)

 イルカは歩を進める。

 それと同時に、こちらに近寄ってくる野武士らの足が速まった。

「来る……」

 刀を小脇にはさみ、イルカは印を結んだ。

 火遁の一つも発動させ、運よくかかってくれれば良し、避けられても目潰し代わりになり、林に身を隠すなどして奇襲を狙える。

「…なんだ?」

「決闘…」

 と流石に異変に気がつき始めた街道の人々がざわめき初めて足を止める。

 それを気にとめず、イルカは呪言をつむぐ。

「火遁……っ!!」



 だが、その言葉が途切れる。



「駄目よっ!!」

 甲高い女の声と同時に、襲撃をかけてくる野武士達の前に鞠が転がる。

 それを追って、茶屋から幼い少女が駆け出してきた。

「!」

 印を解き、イルカは走り出す。

「邪魔だっ」と低く短い怒声とともに、野武士の刃が日の光を受けて輝く。

 ようやく鞠を捕まえた童女がふと顔を上げれば、すぐそこに死が肉薄していた。

「っ!イル……っ!!」

 宿場から、紅絹の切り裂かれるような短い叫びが聞こえた。







 割り切った方が



楽ですよ







童女に向かって手を伸ばすイルカの脳裏に、五月蝿くその言葉が早鐘の様に轟いていた。







「う…るさい…っ!」

 血を吐くような、喉から搾り出されたイルカの声。







 イルカ先生は、本当に子供が好きですね







「っ!!」





 網膜に残る、銀の記憶。



 野武士の刃が童女を切り裂く前に、イルカの両腕がその体を奪い取るように抱きしめた。



 

 銀色の記憶とかぶさって、そこに迸ったのは、





 赤。





「……――ッ!!!」



 紅絹の叫びが、その瞬間に聞こえた。












砕壊<さいかい> 後編





 びしゃん…



 と水分を含んだ音をたてて、鞠が少女の手から転がった。

 白い絹糸で綾られていた手まりは、芯まで紅色を含んでいた。

「う…ぁ・・…・?」

 泥にぬかった地面に突然押し倒された形になった童女。その上に覆い被さる男の体。

 顔を上げて、童女は悲鳴を凍らせた。

「ぁあ…ふ…ぁ……っ」

 童女の頬を掠めて地面に突き刺さる刃が、上に覆い被さる男の体を貫通していると気付いてしまった。

 白銀の刃を、血が伝って少女をも汚していく。

 童女はすがるように鞠に手を伸ばすが、その濡れた感触と生暖かさに「ヒッ」と悲鳴をこぼす。

 すぐ上にある黒髪の男の口から、ごぼっ…という音と共に血が溢れ出してくる。



 両手、両膝を地面につき、低く四つん這いになった体の下に童女を庇った姿勢のイルカ。

 その背中、左肩に近い部位には、雨上がりの日を受けて輝く白銀の刃が突き立っていた。その刃先は、地にも深く根を下ろすように突き刺さっている。



 イルカの背中の上で、嘲笑いが降って来た。

「おやおや…これはどうしたことだ?」

「人質の命などモノともしない冷酷無比な忍…ではなかったのか?」

 突きたてた刀の柄を握る、胸当を着けた男が肩の向こうで当惑の面持ちで立つ男を振り向く。

 恐らく、宿場から逃げ帰ってきた者だろう。

「いや…先程は確かに……」

「女子供には甘い…ってやつか?ふ…定石だな…」

 煩い笑い声が頭上から降り注ぐ。

 背中を貫通した刀は、柄を握る男の手で抑えられ、微塵も動かない。

身動きがとれない自分の体の下で震える童女。「大丈夫」という言葉も、最早口から出てこない。言ったところで説得力のかけらも無い。



イルカは、ただ必死に考えていた。



どうする…

どうすれば…この子を救い、こいつらを……



「さっきは宿場で、仲間を随分と殺ってくれた様だな」

「っう……!」

 体の中で刃が蠢く感覚に、イルカは噛んだ唇から噛み潰した悲鳴を漏らした。

 刃一本でその場の全てを支配する男が、柄を握りこんだまま天啓を下すかの言葉を放つ。

 その視線を、足元のイルカから、宿場の陰でこちらを窺う少女に向けて…-



「あれが、お前の依頼人か…?」



「!」



「っい…」

 泥に横たわる童女が、目を見開くイルカの厳しい面持ちに、肩を震わせた。

 そして、イルカの口から、

「っあああ!」

 短い咆哮。

「!」

 肩から生えるようにして地面に突き刺さる白刃を両手で握ると、イルカは片膝をたてて勢いに任せて上半身を起こした。

 男の手から、柄が離れる。

 地面から刃が抜けたと同時に、イルカは片手で童女を掴むと、空いた手で血に濡れそぼった手まりを掴み取り、男の顔面に投げつけた。

 血が飛び散って、辺りを一瞬、目くらます。

「何っ!」

 肩に刃を突き立てたまま、子供を抱えてその場から駆け出すイルカ。

 目を襲った血を袖で拭うと、野武士の一人がイルカの背中にむけて刀を一閃させた。

「やっ…!」

 紅絹の短い悲鳴。

 刃が描いた光の筋は、イルカの背中を両断。

「やったか!」

 子供を抱えたその背中が、緩慢な動きで地面に崩れ落ちていく。

 だが、地面に落ちる直前、その姿は一陣の煙と共に、刀を突き立てた木片に姿を変えていた。

「変わり身の術っ!!」

 初めて目の当たりにする忍術に、野武士らは息を殺した。足元、左右、前後をせわしなく見渡すが、

 宿場にも、童女の母親の方にも、元来た街道にも、林の方にも、背後にも…



 黒髪の忍の姿は無い。



「どこに行った!?」



 突然、童女の泣き声。

 そして血の雨。

「!?」

 それは、頭上から聞こえてきた。

 上だ、と叫ぶより早く反射的に空を仰ぐと、そこには太陽を背にして飛びかかってくる影。

 刀を逆さに構えた影。

「上…っ」

 野武士が口を叫ぶ形に開いた瞬間、そこに刀が突き立てられた。刀は喉を突き破り、まるで野武士は魚のごとく一本の長刀に貫かれていた。

 子供を片腕に抱いたまま、イルカはその場に手をつき着地した。

「っぐ……」

 左肩の痛みに眉目を歪め、息をつく。

 長刀に縦に貫かれた野武士は、何度も体を激しく痙攣させて体中から血を噴き出していた。

 その光景に刹那怯んだ野武士らを尻目に、イルカはその場から後方に飛び退くと、宿場に向かってセンダンの名を呼んだ。

「…え」

 私かい?と弾かれるように、センダンが宿場から恐る恐る歩を踏み出す。イルカは童女を地面に下ろすと、その傍らに腰を落として耳元に囁いた。

「さ、あのおじさんの所まで走るんだ」

 軽く背中を押してやると、童女はつんのめったような足取りでイルカから離れていく。そして、転げ落ちるようにしてセンダンの懐にその体が収まった。

 赤く濡れて汚れた童女の体を、まるで壊れ物を扱うように抱くと、センダンは一目散にその場から宿場に向かって駆け出した。

 それを背中で見送り、イルカは野武士らに向き合う。

 ようやく痙攣がおさまり、硬直した野武士の死体を囲むように、残った野武士らは半ば呆然とようやくイルカに向き直った。刀は野武士の死体にくれてやったままだ。くないを両手に握る。

「おのれ…忍びめ……」

 次々と武器を構える野武士ら。

 間をとって牽制した姿勢のまま、しばし竜虎の如くにらみ合う。

(痛ぇな…畜生………)

 精一杯の眼光を敵に向けるが、肩の痛みに気を飛ばしそうになるのを、イルカは何とか堪えていた。

 わざと強がりを口走って、気を紛らそうとする。



 ―やっぱり痛いですか?



「!?」

 突然、脳裏に蘇った、声。

 先程、戦いの最中にも胸底から湧きあがって来た、痛みのような、声。



 ―綺麗な血…ですね、先生



 ―俺とは違う……



「五月蝿い…っ!」

 声を断ち切ろうと、イルカはくないを握った右手を前方に突き出し、刃を野武士らに向けた。



 お前は誰だ……!



 壊れたからくりのように、脳裏を回りつづける、闇の声。そして胸を抉るような言葉。

「五月蝿い…」

 振り切るように、イルカは顔を振る。

 そして再び野武士を見据え、低く呟いた。





「…………殺す」























 いつ頃から記憶が途切れたか、それさえ記憶に残っていない。

 ふと我に返れば、泥にまみれて街道の真中で大の字になっていた。

 雲が晴れ、青空が視界を埋めていた。

「……っはぁ……は…っ」

 体がこのまま泥の中に沈んでいく様に、重く、硬い。

 体全体で荒い息をつく。口元で泥と血と唾液が混じりあい、それが実に胸くそ悪く吐き気がこみ上げる。

 わずかに左肩を動かしてみると、そこから稲妻が全身に走るように痛みが駆け抜けた。

「……っ」

 疲労を押しのけて上半身を起こすと、ようやく周囲の様子が視界に入ってきた。

 イルカと並んで横たわっていたのは、首や手足の無い野武士の遺骸。それらが、まるでガラクタのように泥と血の水溜りに浸かっていた。

 イルカの右手には、小刀が強く握られたまま、筋肉が硬直していた。同じく左手にはくない。

 息を切らしながらその場に立ち上がれば、遠目から眺めていた野次馬達が一斉に肩を震わせる。辺りに視線を巡らせば、誰もが顔を逸らす。

 そして背後の宿場からは、センダンが童女を腕に抱いたまま立ち尽くしていた。

 広範囲に飛び散った血や贓物。

 手に手ぬぐいを持った紅絹が、宿場の入り口でイルカの様子を窺っていた。

「…………苦…」

 口の中に溜まった血反吐を吐き出し、イルカは宿場に向かって足を一歩、進めた。

 両頬をぬらす血を袖で拭いつつ、遺骸を踏み分ける。

 宿場の前に屯っていた旅人ら野次馬達が、路をあけて逃げていく。

「…………」

 センダンの後ろに控えていた依頼人の商人達も、近づいてくるイルカの姿に顔色を悪くしている。

「大丈夫ですか…」

 手ぬぐいを手渡しながら、紅絹が下からイルカを見上げる形で問う。

 すみません、と苦笑してそれを受け取る。顔を拭きながら、今まで自らが戦ってきた戦場を見渡す。

(俺…どうやって戦ったんだろう…………)

 縦に串刺しになっている死体。

 林の入り口で体を両断されている死体。

 街路の真中で両手を失い心臓を貫かれた死体。

 自分が倒していった野武士を順に数え上げていく。

 数人までは数えられたが、残りの二、三人をどう殺したか覚えていない。

(またか……)

 いつもこうだ。

 生死が懸かった戦闘をすると、途中で記憶が途切れることが多々ある。

 最初にこの癖に気がついたのは割と早期で、下忍時代だった。

(毎度、よく生き残るもんだ……)

 幼稚な冗談に笑うようにイルカが口元を苦笑の形に歪めると、その傍で紅絹が目元に影を落とすのが分かった。

「……」

 苦笑を飲み込んで、イルカは小さく溜息をついた。

 顔を拭った布巾は、絞れそうなほどに赤く濡れそぼっている。

 それを紅絹に返すのも躊躇われ、手の中に握り隠し、イルカはセンダン達を振り返った。

 アカデミーの受付で見せるような、笑みをたたえて。



「…行きましょうか……」



 センダンの腕から、童女が逃げ出すように母親の元に駆け出していった。













 街道から更に丸一日かかってセンダンらを未苑の国に送り届け、そこでイルカの任務は終了した。

「休んでいってください」

 という紅絹の進言を丁寧に断り、イルカはその足で木の葉に向かって歩き出していた。

 この時点で既に、帰還期限が過ぎていた。

 事が事であった為に街道をはずれて森を通っている事、そして肩の傷が遅延の原因だった。

「っくしょー……痛ってぇな………」

 愚痴を噛み潰したイルカの声。つい、ナルトを叱る時に出る乱雑な言葉が出てくる。

 沈みかけた陽光が、枝葉の間からちらほらと漏れてくる。

大木に凭れ、イルカは腰を下ろした。その額から、汗が滴となって落ちて鼻筋を通っていった。

 戦いの後、忍用の特殊な鎮痛剤を打ったが、その効き目も薄れつつある。肩の傷から体中に水が染み込むように痛みが疼いて広がる。

 歩いては休み、歩いては休みを繰り返すうち、時間だけが刻々と過ぎていく。

「……まあいいか……授業再開は三日後だし…」

 それまでには戻れるだろう。伝言・伝書鳥を利用し、救援の要請、連絡などは容易だが、それをするまでも無い。

 そう決め込んで、イルカはしばしそこで腰を下ろしたまま息をついた。

 左肩を見れば、血止めの為に巻いていたさらしが解けかけている。まだ出血は止まっておらず、緩んださらしの下で、呼吸の度に脈を打って血が流れ出す。

「っく…」

片端を口でくわえ、左右に引いて結び直す。

結び目の下で、傷が疼いた。

「今日は野宿か……」

 火を起こす気力も起こらず、傷もそのままにイルカは大木に背を預けて体を沈めた。



 夏だというのに、寒い。

 イルカは肩を震わせた。

 それが多量の出血の所為である事は分かる。だが、だからどうしようという気が起こらない。

 傾きかけていた日は、あっという間に沈んでしまい、深い森はことさら闇が濃い。

 湿る夏の夜、夜霧が漂う。

「………」

 まどろみかけた意識が急浮上する。

「……?」

 遠耳で響き渡る梟の声に混ざり、夏虫の音。

 無事な右手で体を支え、上半身を起こす。

 何か気配を感じて暗闇に目を凝らす。

 賊か、獣か…それとも夜風独特の全身に纏わりつくような空気の所為か。分かりかねた。

 何も襲い掛かってくる気配も殺気もない。

(怪我のせいで弱気になってるんだな……)

 もはや痛みも麻痺して感じなくなった肩からは、未だに新しい血が滲んでいた。

 苦笑も夜風に流れていく。

 そのまま意識も、再び夜気に溶けて沈んでいった。



 せめて夜が明けるまで……

 このままどこまでも沈んでいきたい。











砕壊 <最終編>





「イルカ先生がいないんだってばよ!」

 と太陽が真上に昇った昼間に火影邸に駆け込んだのは、黄色い頭の少年。

「またか」という面持ちで火影は筆を片手に、振り返った。

「お前か。任務はどうしたんじゃ」

「昨日、今日と祝日で休みだってば。それでイルカ先生ん家に行ったんだけど…いないんだってば」

「……」

 イルカが任務に出ている事を聞き及んでいた火影は、煙管を噛んで口元で揺らした。

「イルカがそんなに暇人だと思ったら大間違いじゃぞ」

「だって…それでも二日も…」

 学校帰り、任務帰りにイルカに会いたいと思えば、いつでも扉の向こうから出迎えてくれた笑顔が、無いのだ。

 それが、著しい不安を誘う。

「あまり心配するでない。お前もイルカもどっこいどっこいじゃの」

 火影は呆れたと言う仕草で溜息をナルトに向ける。

 下忍なりたてのナルトを心配してわざわざ自分を食堂に呼び出したイルカを、思い出す。

「任務に出てんの?イルカ先生」

 書き物をする火影の机に身を乗り出して、ナルトは火影に詰め寄った。

 それを無視するように、書き物に視線を落としたまま火影は筆を動かす。

「…教師に任務が廻る事は稀でない。あやつも一応、忍びじゃからの」

「……で、任務から帰って来る予定の日は、今日?明日?」

「ワシが知るかい」

 即答。

 書き物をする手の動きにも、嘘を示す兆候は見られない。

「ちぇー」と頬を膨らませて唇を尖らせて、ナルトは火影邸を去っていった。

 静けさを取り戻した火影実務室。

 手を止め、硯に筆を置く。

「やれやれ」と独言と共に溜息をついた。



「帰還予定日から二日が過ぎているなどと…誰が言えるかの………」



 イルカからの音沙汰は、全く無い。













 森を抜け、山を越え、そして最後の渓谷を歩く。

 ここを抜ければ、里へと続く街道にぶつかる。



 上った朝陽は、すでに峰影に隠れて沈もうとしていた。一面の、夕暮れ空。

 そして訪れる逢魔ヶ刻。

「…明日の昼には帰れるな……」

 河岸に出くわし、手ごろな岩を見つけてイルカはそこに腰を下ろした。

 そこだけ、木々の群れが途切れ、切り取ったような空が仰ぐ事が出来る。ここならば、周囲が見渡せる。イルカはここを、最後の野宿場に決めた。

「………?」

 安堵の深呼吸もつかの間、木霊してくる獣の遠吠えに、イルカは宙を仰いだ。

(…遠いな………)

 薪を集め、火を起こす。

 炊事をする気は起こらない。携帯の保存乾し肉を齧って焚き火を夜灯りにして、大岩に体を預けた。

 昼は太陽の光で焼けていただろう岩も、次第に濃く立ち込めてくる夜霧に冷やされて今は硬く、冷たい。

 遠吠えと焚き火の弾ける音を子守唄に、イルカの意識は闇と共に深く、沈んでいった。





 ザワ………





「っ!!」



 突然の胸騒ぎに、

 イルカは急激な覚醒と共に体をはじけ起こした。

「つ…」

 その反動で肩が疼いた。



 辺りは闇。

 焚き火は、燻る音を立てていた。火は消えている。

 白煙が漆黒の空高く、どこまでも上って漂っていた。それを目で追う。

「…………」



 アオオオオオオオーーーーーーーーーーン



「!」

 遠吠え。



 近い。



「………」

 息を殺し、イルカは周囲の気配に全神経を向けた。

 枕元に置いてあったくないを、握り締める。

 

 グルウウウウルルルル… グルウウルル………

 

 低く、威嚇する獣の唸声が、始めは一つ。それを追うようにして二つ、三つ…と、次々と重なり合う。

「……何……っ!?」

 川を背に、背を低く構えるイルカ。

 それを中心にして円を描くように、光る幾つもの眼が現れた。

 イルカが目覚める前から既に、取り囲まれていたのだ。

「……ただの狼じゃねえな………」

 野生の獣の気配を読む事は、忍びにとっては容易い事だ。それに気付かず寝過ごすなど、ありえない。

 余程に訓練を受けた軍事用の獣でない限り……。

 幾何学的な隊列を崩さず標的を囲む狼ら。

 低い姿勢から、イルカは河岸の石を片手に握り取ると、弧を描くように腕を振る。

「ギャンッ!」

 石礫が二匹の顔面を襲った。両手を上げ、後ろに飛び退くようにして二匹が顔を背ける。両側の数匹が刹那、怯んで姿勢を乱す。

「崩れろ…っ!」

 そこにイルカがくないをかまえて飛び込んだ。

 僅かに反応が遅れた三匹を飛び込みざまに切りつけ、輪の中心から逃げ出すように飛び出した。

 すかさず振り返り、今度は川を背にして隊列を作るように並ぶ狼らの光る目と対峙する。隊列が崩れた狼たちは、水際でイルカを見据えてウロウロ。それでも、飛び掛る機会を伺っていた。

 だが、まるで号令が掛けられたかの様に、びくりと体を僅かに震わせたかと思うと獣たちは、再び隊列を成しはじめた。操られるように獣らの足が、規則正しい隊形を作っていく。

「……?」

 まさかと思い、イルカは耳元に神経を集めた。

「!」

 音は聞こえないが、鼓膜が空気の僅かな、微々たる振動を感じ取った。



 間違いなく、犬笛である。



「お前ら…軍用犬か……っ!?」

 獣たちに向けて噛み潰した声を吐き出す。そして、くないを構え直した。

(…どこから送り込まれた……?山賊や野武士と軍用犬なんて聞いたこと無いしな……)

 この狼らを操る者の気配と姿を懸命に探して、イルカは八方に神経を巡らせる。

 だがその正体を探し当てる前に、先陣を切った一匹が地を蹴って宙からイルカに襲い掛かった。

「っふ!」

 白毛の腹にくないを投げつける。

 短く甲高い叫びを残し、体を大きく反らせて狼は地に落ちた。それを合図にしたかのように、今度は一斉に動き出す獣たち。

 イルカは、一直線に向かってくる狼たちに向けて、素早く印を切った。

短い印で発動する、形は単純だが威力の強い火遁術である。

「火遁 烈火焦の術!」

 末広がりに燃え拡がる炎の帯が、獣たちの影を包み込む。

 幾匹かはその中で断末魔と共に身を焦がして地に落ちる。

だがその屍を超え、残った狼らは、一際体の大きい頭を中央に三角陣を描いて炎幕を突き破り、イルカに襲い掛かって来た。

「しぶとい…っ」

 拳を握った右手の手首に左手を添え、束の間に口の中で言霊を口走る。

 口を全開に牙を剥き出して飛び掛る中央の狼。

その口内に向け、イルカは左足を踏み込むと同時に拳を突き出した。

「ギャイッ!」

 形容し難い奇声を上げ、狼は息を詰まらせた。口内に押し込まれたイルカの手を噛み砕かんと顎を閉じる。

「ぐっ…」

 手首、掌に牙が食い込みイルカは苦痛の呻声を漏らした。だが、左手で右手首を掴んだまま、尚も手を狼の口内奥深くへと押し込む。

 中空に体を躍らせたまま、苦しさに狼は体を捩じらせ跳ねた。

 その両脇から、三角を描いていた狼らが一斉にイルカに噛み付こうと牙をむき出しに飛び上がった。

 瞬間、痛みに堅く閉じられていたイルカの両目が闇を捕らえた。怒鳴る形に口を開き、短い呪言を吐き出す。

「破っ!!」

 気合と同時に、狼の口内に突っ込んだ掌から赤い閃光が炸裂。

 それは灼熱の爆発となり、口内から獣の体を粉々に破裂させ、もろとも周囲の狼数匹を吹き飛ばした。

「ギャンッ…ゥゥン……」

 それを目の当たりに、残った僅かな数の狼は、耳を後方に欹てて悲しい声を漏らす。

 贓物と血で汚れた右腕を苦々しい面持ちで振り払って、イルカは再びくないを構えた。すると、

「キャンッ!」

 と一声残して狼たちは踵を返して去って行った。

 それを見送り、だがイルカはくないを構えたまま森の暗闇を見据える。



 犬笛の主が現るのを待つ。



「………?」

 だが、気配が動く様子は見られず、当然ながら犬笛による空気の振動も感じられなくなっていた。

 ただ森の風が、遠くで騒ぐ森の獣たちの声を運んでくるだけ。

 尚もくないを構えたまま体勢を崩さないイルカ。

 一向に現れない次なる敵。

「………………」

 持続の限界を迎えた緊張感の糸が緩む。

 それに伴い、腕の傷と体の疲労が徐々に全身に圧し掛かる。

 くないの重ささえも苦痛になる。

 一つ、大きく深い溜息を吐くと、イルカは火の消えた薪を振り返る。せめて明りを確保しようと、火をつけるためにそちらに一歩を踏み出した。



 風が止んだ。

「!!」



 背筋を襲った悪寒。

 

「………」

 闇から溶け出すように徐々に姿を現す気配があった。

 イルカは暗闇の中で、気配を頼りに振り返る。





 何故助けを呼ばなかったんですか?





「………っ……」

 まるで頭に直接話し掛けてくるかのような低く、鈍い響きを放つ声。

 否定を繰り返しても、胸中にこびりついて離れない、問いかけの声だ。

「誰だ……っ!」

 軽い嘲笑を含むその声に、イルカは鋭く問い返す。

 

 …………………



 返事は無い。

 その代わりに、



 すぐ背後に気配が現れた。

「なっ!」

 咄嗟にくないを握った腕を回してイルカが振り返る。

 目の前を黒い影が通り過ぎたかと思うと、肩に痛烈な痛みが走った。

「つっ…!」

 傷を負った肩を掴まれたのだと、痛みに悲鳴を上げる脳裏の隅で、理解する。

 暗闇の中、僅かな朧月明りの中で逆光になる影が、すぐ目の前にあった。

 影が伸ばしていた手が食い込むように肩を掴んでいる。

 殆ど無意識に、イルカは腰を落とすと人影の懐に身を沈め、掴まれた腕を左手で掴み返した。そして、

「離………せっ!」

 短い一喝と共に、投げるように背負った。

「!」

 手が肩から離れるのが分かった。

 だが、地面に叩きつけた感触は無く、黒い人影は軽く身をかわすとイルカから数歩ほど離れたところに着地した。



「危ない危ない……」



 砂利がぶつかり合う微かな音と共に、低い声が返った。

 再び出血した肩を手で抑え、イルカは後ろに足を一歩退いた。

「…………誰だ」

「まだそんな事を言うんですか」

「…………え…?」

 

 月にかかった雲が、僅かに晴れた。



 まず、光に反射して抽象的に浮かび上がったのは、

 銀色。



「まったく、人を不愉快にさせますね、アンタは………」

 くつくつと笑う、銀の影。

 遠くで気が違ったように鳴いていた獣の声も、今は静寂に飲み込まれてイルカの耳には届かない。

 そこにあるのは、

 「その」声だけ。

「そんなに……」

「え……?」



 そんなに俺が嫌ですか?



 雲が、晴れた。



 闇から浮かび上がってきたのは、限りなく黒に近い藍染の忍装束。

 そして、今度は鮮やかに白い月光を受けて輝く、銀髪。そして、白い生気の無い肌色。



「……………」

 イルカの黒曜の瞳が、

 月光の中で大きく見開かれた。



 砂利がざくりと重い音をたてる。

 近づく足音。気配。体温。

 これは、

 あまりにも危険な香り。

 イルカの全神経が警告を発する。

 肩の痛みが、そこでもう一つの心臓が脈打つように鼓動して痛む。



「………イルカ先生」

「………」

 頬に、

 冷たい感触。

 それが全身の皮膚に伝わり、イルカは再び全身に寒気を感じた。

 なぞるように、撫でられる頬、こめかみ、耳、首筋、そして、唇。

 

 限りなく優しいその指先が、

 だがイルカには限りない



 恐怖に感じた。





 どこまでも白い月光の中に、あるその顔は、

 真っ直ぐイルカの瞳を捕らえて離そうとはしない。



 遠くの無意識が、

 イルカの口のその男の名を呼ばせる。



「カ……カシ……先…生……」



 横っ面を殴るような風が通り過ぎ、

 そして ぬるま湯のような凪に変わる。



 月光の中で、

 男の口元が笑った。



「やっと、俺の名前を呼びましたね…イルカ先生」



 イルカの手の中に握られたままだったくない。

 カカシの手が肩から腕をゆっくり伝い、その手に到達する。

 イルカの指先が一本一本、くないから外されていく。

 音をたてて、くないが足元に落ちた。



「そんなに、」

「……え?」

 イルカの唇をなぞっていたカカシの指先が、再び首筋に降りる。

 その指先に

 力が込められた。

「……っ」

 空気の通り道をふさがれ、イルカが眉目を顰める。

 淡々とした空気の振動が、カカシの口からイルカの耳朶に届く。

「そんなに」



「そんなに、死んでも俺には助けを求めたく無かったんですね……アンタ」



 口元の笑みは、

 かげり始めた月影と共に消えていた。

「……っ何…」

 カカシの言葉が理解出来ず、イルカは喘ぎつつ声を搾り出す。



「まさか…あの狼……は」

 応える代わりに、カカシの口元が微かに歪んだ。空いた手を自らの胸元に差し入れ、

「この辺りの森にはね…出来そこないの忍犬が処分されて野生化してるんですよね………」

 紐で結わえられた銀色の小笛を取り出す。

 それを指先でくるりと振り回した。

 犬笛。

「でも奴らにも流石にそれなりの条件反射的記憶力はあるようで……」

 不適なカカシの声調に、イルカが目を見開く。

「……何故……っ!」

「『何故』?」

 突き飛ばされるように首から手が離された。

 喉元を抑えて咽るイルカ。

 それを見下ろすふてぶてしい面持ちで、カカシは僅かに声を張った。

「アンタ、前にもそんな事を言いましたね」



 何故



「『何故』って、俺に問いましたね。……泣きながら」

「……止めろ……っ!!」

 急激に下からこみ上げてくる寒気に、イルカは身を震わせた。

 こじ開けられた記憶の扉が、イルカの中で音をたてて軋む。

 血の気が引いた面持ちを前に何故だかカカシは満足げに笑んだ。

「思い出しましたかねぇ………やっと」

 との言葉と同時に、カカシの両腕がイルカの肩と腕を捕らえた。

「っあ…!」

 反射的に逃げる事もままならず、イルカは肩に食い込んだカカシの指に悲鳴をかみ殺す。

 凪風が、突然突風に変わった。

 頭上で枝葉が悲鳴を上げる。

 脳内に直接響く心臓の鼓動が、頭痛と共に吐き気をまねく。

 立っているのも苦痛で、イルカの足が力を失い折れる。

「ふん…」

 カカシが軽く足をかけただけで、イルカの体は簡単に重心を崩した。

 そのまま背中を砂利に叩き付けられる。

 上から圧し掛かる重みに、蘇る記憶が重なった。



「……っ」

 逃れようとも、上から負傷した肩を押さえつけられるだけでその痛みで動く事すら叶わない。

 腕一本捨てる覚悟が必要だった。

「俺がどんな思いでいたか……わからないでしょうね」

 寒いほど冷静に、カカシは無機質に言い放つ。

「ナルトに微笑むアンタの笑顔がすぐそこにあるのに、俺はあんたの無意識の中にも存在していなかった……」

「!」

「あれから一度だって…俺の名前を呼んでくれた事がありましたか?」

「……っ…やめ…」

 月光を隠してしまうカカシの肩の下。

 破れて血に汚れた上着の下に、冷たい感触が這う。

 それは鎖骨をなぞり、胸元をなぞり、わき腹を撫ぜる。

 自由な左手でカカシの胸を押しやるが、カカシは意にも介さず行為を続ける。

「そぐわない任務なんか気安く請け負って……

 民間人を見殺しにしてまで依頼人助けて、人殺しを重ねて」

「………っあ!」

 一際強く肩を抉られ、たまらなく噛み潰していた声を上げる。

 脇腹に添えられていたカカシの手が、下腹部に向かう。

「挙句、子供助けて串刺しになってりゃ世話ないですよねぇ……

むしろ滑稽ですよ」

「な……ん…そんな事………」

 肩を掴むカカシの指先の間を、生暖かい血が流れ落ちる。

 股を割って押し入ってくるカカシの体を拒もうと、イルカはひたすら無駄とも見える抵抗を示す。



「耐えられない苦痛に襲われても…

死にそうになってまでも……」



「………せ…」

「先生」と呼びかけて、イルカの口が止まった。

 カカシの胸を押す手に、寸時、力が抜けた。

 その黒い瞳は、驚愕をたたえてカカシを映していた。





「貴方は俺に助けを……名前を呼ぼうとも……しなかっ……………」





「…………」



 イルカから瞳を逸らしたカカシ。

 銀髪の長い前髪がその表情を隠してしまう。

 イルカの体を拘束するその両手が、

 

 震えていると感じるのは、自分も震えているからだろうか……



 それとも





「カ……」

 呼びかけた名前が、途切れる。

 苦しいほどに、胸が詰まる。

 

 イルカの双眸が、悲哀の色で潤んだ。



「………………」

 静止していたカカシの体が、手が、動く。

「っ…!先……止め……!!」

 



もう一度 名前を 呼んでくださいよ





「ぐっ…!」

 全神経を握りつぶされるような感覚に、イルカは息を押し堪えた。

 有無を許さない、突き上げる痛み。

 準備も無しにイルカの内部に抉じ入ったカカシの感情の塊が、こみ上げる吐き気となってイルカを襲う。

「ごほっ…」

 吐くものさえ無い。胸の中で逆流した空気に、ただ咽る。

 イルカの体に覆い被さり、カカシは更に最奥に自らを突き刺す。

「……っく…」

 イルカは自由な左手で地を弄る。

 河岸の小石と砂利が掌に当たる。体中を蹂躙する熱に浮かされながら、イルカはすぐ近くに転がっている筈のくないを探る。

「っは……っ」

 指先に、冷たい金属が当たる。

 重たい体の下懸命に伸ばす指先が、辛うじてくないの握り柄を捕らえた。

 体の上で息づく鼓動と熱のうねりに意識が遠のきそうになりながらも、

「っ……」

 引き寄せて、握り締める。

「………」

 カカシの肩の向こうに、

 月が見え隠れする。

 半ば意識を飛ばしたままのイルカの黒曜石の瞳に、白い光が露となって光る。

 荒くなり始める息遣いと、心臓の鼓動、そして情の迸り。



 封じ込めていた、

 熱に浮かされたあの夜……



 イルカは握ったくないを

 月に翳すように振り上げる。









 他に方法を知らないんです

 

 力ずくで手に入れる事しか…



 自分の命も こうやって手に納めて生きてきた



 これしか



 俺には術がない



 俺は





 貴方みたいに



 笑えない







    ―――――可哀相に





 ……………………







    ――――――可哀相な人











 じゃあ、慰めて下さいよ













 だが、

「………っう……」

 意識に反してその手が止まった。

「うっ……く……」

 代わりに、飲み込んだはずの嗚咽が漏れた。

 水面に映ったように見えた月が、ついには溢れた涙で見えなくなる。



 カカシの動きが、止まる。

「………殺らないんですか………?」

 体を起こしかけたカカシの腕を、縋りつくようにイルカが掴む。





 金属が砂利に当たる音。



「………イルカ…先生」

 イルカの顔のすぐ傍に、くないは落ちた。

 流れ落ちる涙が砂利を濡らした。

鈍い光を宿すくないは、無言で月の光を浴びている。





「出来ませんよ……カカシ先生………」



 イルカの口から漏れる、苦笑。







 カカシの腕を掴んだまま、イルカは静かに双眸を閉じた。



 月の光と、銀色が眩し過ぎる。



 

 あまりに原始的で美しすぎるから…



 この子供のように不器用な男が、





 あまりに儚いから………………









 原始の森を吹きぬける風が、

 そしてまた凪いだ。











 おわり
スポンサーサイト
2005.10.25.Tue/14:30
COMMENT TO THIS ENTRY
   非公開コメント  
TRACKBACK TO THIS ENTRY

お知らせ

  • WEB拍手やご意見ご感想へのお返事は、BBSに記載しております。

管理人へ連絡


お気軽にお声がけ下さい
ID= eishika_yieza


ご意見ご感想はこちら(BBS)
ご意見ご感想はこちら(FORM)
メールはこちらから

参加中



超・長編小説同盟に参加しています。

私はClubA&Cに加盟しています。
よろしければご感想をお聞かせ下さい。
私も貴方の作品の感想をお送りさせて頂きます。

プロフィール

北野ふゆ子

Author:北野ふゆ子
> 昔は、ゲームやマンガの二次創作をしておりました。現在は主にオリジナルネット小説を執筆しています。 得意は「シリアス」「アクション」「サスペンス」です。

ブロとも申請フォーム

リンクリスト

ブログ内検索


CopyRight 2006 北凪 All rights reserved.

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。