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遺品・同日
「ケーサツが瀧袴だとかいう人の遺品とりに来いってさ」
そう、土曜日に掛かってきた電話の内容を伝えた時だった。
「!」
その一瞬、彰人の顔色が確かに変わった。
「…分かった」
絶句した瞬間の彰人の目は、尚人を貫く様な厳しさを湛えていた。下唇を一度噛んで唇をきつく閉じ、そして明らかな作り笑顔でそう頷き返した彰人からは隠し切れなかった程の衝撃を受けた様子が、分かり過ぎた。
「いつ電話があったんだ?」
くぐもった声で、彰人が言う。
「土曜の昼……かな」
「病院に電話すれば良かったのに」
「いつでも良いような感じだったから」
「今度から携帯に電話してくれよ」
コンロでやかんが玉状の湯気を吹き出し始めた。湯が沸くタイミングを見計らって、また会話が彰人の都合の良い様に締められた。彰人は沸いたお湯でコーヒーを淹れると、台所からリビングを抜けて自室に戻ってしまった。仕事中だと分かっていたので、尚人に彰人を呼び止める事が出来ない。だがそれは明らかにそれ以上の事態の深淵化を避けた彰人の行動。疑念だけが尚人に残された。
警察、事件、十五年前、遺品……
(瀧袴って誰だ…?)
彰人に物を遺す程の間柄だ。彰人の友人関係、患者、親しい親族のどれかなのだろう。そして荒川の話と彰人の態度から、恐らくは尚人とも関係のある人物。
「あの事件に関しましては、誠にお悔やみ申し上げます」
荒川の言葉はまるでこちらの事を書類上か何か、表面上のみ知っている口振りだった。
一般的に人は、疾しい事が無くても「警察」の言葉には無意識に緊張感、畏怖を持ってしまう事はよく聞かれる事だが、尚人の場合それと少し異なっていた。相手が「警察」と名乗った瞬間から、尚人の感覚は昼起きのぼやけから完全に覚醒し、普段以上に研ぎ澄まされた。神経が異常に張り詰められ、全感覚が過敏になった。荒川の喋った言葉の一言一句が、記憶に焼き付けられた。
この感覚は、前にもあった。
あの事件に関しましては、誠に…・
多くの貴族が逮捕され、監禁され…
今回お電話差し上げましたのは、その、瀧袴が代沢さんに遺したと思われる物が…
この路地に**子さんが歩いて来た時に、バンの陰で待ち構えていた**容疑者は、あらかじめ用意していたと思われる鉄パイプで
え、あ、君…弟さん…ああ…本当だ
アメリカの小学校で十歳の男子生徒が
高校生の、コンビニのアルバイト店員二人が
あ、失礼、こっちの事です…。
逮捕から既に二ヶ月が経過した、達樹ちゃん誘拐事件で
まあ、とにかく…
こうして、会話の吃り、感情までもが活字になって蘇ってくる様だ。今この瞬間でもパソコンからファイルを引き出す様に自在に思い出せる。突然思い出す事もある。だがその度に、心臓が意志に反して不自然に高鳴る。同時に甦る様々なノイズまでもが鮮明だ。
それと同じように、
(瀧袴……?)
その「音」を確かに尚人は覚えている。
言葉ではなく「音」として、それは確かに聴覚を通じて脳に焼き付けられている。
(十五年前…)
尚人は生まれて間も無い赤ん坊だった。
(何も覚えているわけないよな)
心の深層が自衛本能のサインを出して「気のせい」で済まそうとしていた。都合の良い理屈だけを強引に事実否定による身の安全へ紡ぎあわせようとしていた。
十五年前。彰人も当然、まだ医者ではなかった。中学生のはずだ。物言わないドアを見つめて、その向こうで自分に背を向けて机に向かっているだろう兄の姿を、尚人は想像した。あのドアの向こうで今彰人は何を考えているのだろうか。犯した失態、弟に洩れた秘密ごとの取り繕い方法を思案しているのだろうか。
尚人は彰人の事を何も知らない。
交友関係、趣味、詳細な職業内容、過去、そして普段彼が何を考えているのかも。
彰人も尚人の事で知らない事が多い。
小遣いの使い道、尚人の読む本、彰人が仕事で居ない時の尚人の行動、学校生活、そして普段尚人が何を思っているのかも。
兄弟でありながらお互いを知らなさ過ぎる事は今更の事で、隠し事もしょっちゅうだった。
それを疑問に思う事も、これまで必要ないはずだった。
(何を今更………)
尚人が見つめるドアを隔てた向こう側で、彰人は机に肘をつき、組んだ両手に額を乗せて俯いていた。目に見えるのはやり掛けの仕事内容が印刷された紙の束と、父親が使っていた木製机の木目だ。
尚人に知られてはならない事、
尚人が知ってはならない事、
それが断片とはいえ尚人の記憶に刻まれてしまった、その現状を呪っていた。
(よりによって「瀧袴」の名前を知られるなんて……)
全て終わったと思っていた事の予測外の事態に、何を憎むべきか彰人の怒りは複雑に絡まって行き場を失っていた。
よく確かめなかった荒川のミスを責めるべきか、自分に物を遺した瀧袴を憎むべきか、油断していた自分を責めるべきか。
失態は「瀧袴」の名前を知られた事だけではない。彰人が警察と何らかの接点を持っているという印象を尚人に強く与えてしまった事、自分が警察沙汰の「事件」に関わっていた事、警察も自分も尚人からそれをひた隠そうという態度である事。
もし、兄が思っている以上の勘の良さを弟が持っていたとしたら、断片からでも事実を引き当てられてしまうかも知れない。
(尚人にだけは……)
彰人はふと顔を上げて、腕時計を見る。数秒間、頭脳で思索を展開すると引っ手繰る様に鞄から携帯電話を引っ張り出した。
まだ、まだ知られていない事はたくさんある。まだ隠し通せる。一抹の希望を心に彰人は行動に出た。
何故前もってそうしなかったか、それを悔やんでいる隙は残っていなかった。
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